幕末から明治の梅毒

必要があって、幕末から明治にかけての遊女・娼婦の梅毒検査を通じて「身体の歴史」を論じた論文を読む。文献は、Burns, Susan, “Bodies and Borders: Syphilis, Prostitution, and the Nation in Japan, 1860-1890”, US-Japan Women’s Journal 15(1998), 3-30. これは翻訳されているらしい。

安政の開国で条約港となった長崎に、1860年にロシアの軍艦のポサドニック号が停泊した。その船員は付近の寺に宿泊していたが、日本の女性に暴行を加えたため、長崎奉行が抗議することとなった。ロシア側は遊郭の使用を申請し、その遊女に梅毒検査を行うことを求めた。外国人を相手にしたサービスには慣れていた長崎の遊女たちは、性器を直接検査される梅毒検査に拒否感を示したため、当時長崎で医学を学んでいた松本良順は、ロシア人の宿舎の近くに特別な建物をつくり、そこに島原の遊女を派遣するという体制をとった。これは、遊女屋(というのかな)に特別な料金を払い、遊女にも代金をはずむかわりに、屈辱的な性器検査を我慢してもらうものであった。つまり、それまでの遊女・遊郭の文化とはちがう、特別な空間を作り上げ、そこで梅毒と身体についての新しい理解をつくるものであった。このモデルは、松本自身がのちに影響力がある医政者となったこともあって、日本にとって重要なプロトタイプとなる。すなわち、松本自身が江戸において似たような遊女の梅毒検査のシステムの導入を試み、横浜でイギリス人によって梅毒検査が始まるという過程を経て、明治政府は、娼妓を名目上「解放」するとともに、梅毒検査を行うようになる。それとともに、「国民の身体」という問題系の中で、それをむしばむ娼妓という対立構造が現れた。永井荷風らが遊郭を「本来の日本」が保たれている場所としてノスタルジアをこめて描いたのも、このモデルに依存するものであった。

開国―条約港における欧米諸国との関係―国内に同じシステムを導入するという流れの中で、梅毒という病気が置かれる言説の構造が変化したことをシンプルに論じた、優れた議論だと思う。