森崎和江『からゆきさん 異国に売られた少女たち』から、あそこに入れるエピソードがたくさん引かれていたので、原型を書いている。
1. 医療市場の成立
2. 梅毒献身の恐怖
3. 20世紀初頭の梅毒研究の急速な進展
4. 王子脳病院におけるGPIの検診と治療
5. 短期滞在日数というモデルの成立
2のある部分
梅毒の検診は、19世紀末までの西洋医学において、医療者にとっても、女性にとっても、そして女性の親にとっても、非常に大きな不快感と苦痛が存在していた。ことに売春婦たちにとって、女性器内部の外科的な検査、そして視覚と接触を通じた検診を含んでいたため、非常に屈辱的なものだという社会的な合意が強く存在していた。欧米の梅毒検査の方法を日本で最初に行ったのは松本良順であり、彼は長崎でポンペからこの手法を学び、そこのロシア人向けの売春宿で女性たちの梅毒の検査をおこなったが、これを彼自身が厭わしいものだと考えていた。彼の回想によると「私はまだこんなことをやったことがないので、ポンペに教えられて、やってみたが、イヤもう一二度でたまらなくなったから、それからは、書生をかわるがわる検査にやった」とある。同じように、横浜の外国人向けの娼館や。東京の千住の日本人向けの娼館でも、同じような方法が用いられ、日本側からも強い批判が現れた。明治4年の大坂日報によると、大蛇の口から器械をもちいて開き、その奥まで丁寧に視覚と接触でチェックするものであった。医療者と女性の双方に不快感と苦痛と屈辱を与える方法であった。