陸軍病院で戦争神経症をみるのが楽しかった精神医

櫻井図南男『人生遍路』(福岡:葦書房、1983)

九州大学精神科の著名な医学教授の自伝である。

一番重要なポイントは、昭和13年から16年にかけての国府台陸軍病院への応召を楽しいものと受け止めていることである。国府台に昭和13年春から応召、戦争神経症の患者を丹念にみて、陸軍病院の病床日誌は極秘だがそれをひそかに写し取ったこと。小泉親彦は当時は陸軍医務局長で、戦争によって引き起こされた精神疾患をあつめ、軍陣精神医学の研究を行った。練兵場に新しい病棟を立てたたが、これがぼろい建物で、あっというまに継ぎはぎだらけになったこと。北支から呼ばれた諏訪敬三郎が院長となり、活発な研究活動をリードしたこと。月に一度の研究会が開かれ、症例報告や抄録が行われ、精神医学関係の書籍も収集されて一通りそろうようになった。医師たちは諏訪を国府台医科大学の諏訪学長と冗談で呼ぶようになるほど、アカデミックであった。一方、そこに流入するようになった戦争神経症は櫻井を感動させた。櫻井たちは第一次世界大戦における戦争神経症をドイツの文献から十分に知っていたが、現実に目にするのはもちろん初めてであった。櫻井が観たことがない奇妙なヒステリーがあり、転換があった。それは「宝の山」であり、「汲めども汲めども尽きぬ宝庫」であった。これは、前線の病院などから一緒に送られた病床日誌とともに研究することができた。逆に、この患者たちが別の病院に転院するときには、病床日誌もそれに付随して送らなければならないので、必要なものは書写した。この経験をもとにして昭和16年に合計6編になる大論文を投稿したが、これはアメリカ軍の精神科の中枢であったメニンジャーが終戦後に国府台で研修をしたときに高く評価したものであった。

戦争の終わりごろになると、兵と将校の関係、軍と国民の関係も、かつてのような自信や規律がなくなってきた。それに歩調を合わせるように、神経症も変わってきた。戦争のはじめにはなかった無気力、疾病逃避が増え、詐病かどうかはっきりしないヒステリーも増えてきた。戦争末期になると、日本のあらゆる部分が、「でたらめで、投げやりで、卑屈になっていた」とあるが、神経症もその変化を蒙っていたと櫻井は感じていた。

それ以外にも重要な櫻井は、東京の開成中学―山形高校―九州帝国大学医学部と進み、セツルメント運動と共産党へのシンパで逮捕されたが復学して九大を卒業したのが昭和10年。昭和13年に国府台陸軍病院の精神科に応召され、その経験をもとに戦争神経症についての一連の優れた論文を書き、戦後は徳島大学教授を経て九州大学教授になった。

山形高校の歓迎ストームでガラスを200枚割られたこと、学生一同が出費したこと、山形で初めて喫茶店に入ったり映画を観たりして感動したこと。

九大で医学部の大学教授の権威主義に幻滅したこと、九大セツルメントに入ったこと、法学・文学の教授が気軽で率直で医学部の教授とは対照的で好意を持ったこと、筑紫保養院の院長となり、昭和21年に在院していた200人の患者のうち、年末に生き残ったのは18人で、ほかすべては飢餓などで死に絶えた。