木々高太郎の作品―フロイト、植物人間、聴診エロス、優生学

木々高太郎木々高太郎著作集』全6巻(東京:朝日新聞社、1970)

木々高太郎(きぎ たかたろう)は、本名を林髞(はやし たかし)といい、慶應医学部の生理学の教授である。1897年生、1969年没。ソ連に留学してパブロフのもとで研究した。ソ連の精神科学の提唱者である。戦前から戦後にかけて、一般向けの衛生書、精神衛生書などを数多く書いたが、おそらくその側面よりも、推理小説の作家として有名である。推理小説を中心とした著作は全6巻で1970年に刊行されている。

 

第1巻『人生の阿呆 ほか』には、デビュー作である「網膜脈視症」をはじめ、「就眠儀式」「睡り人形」「恋慕」「青色鞏膜」「医学生と首」など、医学から直接インスピレーションをとった作品が多く取られている。

 

「網膜脈視症」と「就眠儀式」はフロイト派の発想を駆使した二つの作品である。この作品が昭和戦前期の探偵小説の読者に受けたという事実を憶えておかなければならない。「睡り人形」は、生理学の研究者である大学教授が、自分が愛した女性を長期の嗜眠にかけて、ある意味で植物人間のようにしてしまい、そこから性交して妊娠させる話。「松子、もうお前は永久に、全く、私のものになってしまったのだ」(39) という引用は憶えておくべき。「恋慕」はジギタリスの心臓病の薬を使った殺人事件の話だが、それよりも、医学生と人妻が、聴診器で胸の音を聞くことを通じて、愛情を通じさせあっている場面は、この上なくモダンでエロティックな記述に見える。これは読んでいない人は読んでおいたほうがいい。

 

ぜひ読まなくてはならない作品は「青色鞏膜」(せいしょくきょうまく)である。これは、医学史の研究者は読んでおいたほうがいい興味深い作品である。山梨県の身延の裏にある貧しく小さな寒村を舞台にした恋愛小説である。一方には、当時の医学上の遺伝の説、医学校の教室が行う遺伝調査の話、青色鞏膜という遺伝性の障碍の話などがある。医学生も医学教授ももちろんばんばん登場する(笑)もう一方には、身延のあたりの寒村の、どうにもならない封建制のなごりと主家と下人の家柄についての偏見があり、その中ではぐくまれているハンセン病の血統についての牢固たる考えがある。そして、もちろん、医学における遺伝についての説と、伝統社会の中の血統についての説は、重なって強まりもするし、反発して打ち消しあうこともある。優生学が日本の伝統とどう関係したかという問題がよく分かる。