White, Gilbert, and 義雄 山内. セルボーンの博物誌. 講談社学術文庫.  Vol. [1018]: 講談社, 1992.
White, Gilbert, and Paul G. M. Foster. The Natural History of Selborne. The World's Classics. Oxford University Press, 1993.
 

f:id:akihitosuzuki:20170815095721j:plain

 
実佳が行っているチョートン・ハウスはセルボーンの近くである。次の日曜日くらいに、遊びにいくらしい。私も一度行ってみたい場所である。セルボーンという村は、イギリスのハンプシャーの小さな村であるが、18世紀の末に、その村の牧師のギルバート・ホワイトが書いた書物舞台となった村である。この書物の自然誌に関する部分が、現在では『セルボーンの自然誌』として古典となっている。ペンギンやオクスフォード大出版局から、優れたイントロと注釈が付き、挿絵を入れた書物が出版され続けている。 特に、バードウオッチングの部分が傑作として名高い。英語の文章は、柔らかさがあって、私は素晴らしいと思う。日本語でも偉大な英文学者たちが定期的に訳し替えている。私は英語は古いオックスフォード・クラシックスを持ってて、日本語は山内義雄講談社学術文庫を持っている。アマゾンに行ってみたら、アン・シコード先生がイントロと註をつけた新しいオクスフォード版が出ていたので、喜んで買っておいた。なお、日本のアマゾンでは、ペンギンとオクスフォードが混乱しているので、買う時には気を付けてください、
 
『セルボーンの博物誌』を読んでいたら、「ハンセン病の克服」という文章があったので、内容をメモ。 日本語版では、私が見ている原文にはない見出しがつけられていて、そのタイトルが「ハンセン病の克服」である。バリントンへの手紙の Letter 37である。
 
セルボーンの村には、手のひらと足の裏だけが侵される特別なハンセン病を患う人物がいた。子供の頃からこの病気のため歩いたり仕事したりできず、30歳で死ぬまで村の負担になっていた。この病気は、かつては全ヨーロッパで流行していた。イギリスでもあちこちに療養所があった。しかし、現在ではハンセン病は非常にまれな疾病になった。このようなハンセン病の衰退の理由を考えたときに、やはり栄養と生活の改善が大きいだろう。かつては肉や魚は、塩漬けの質が悪い物であったが、今では牛の生肉が手に入る。昔はすぐに汚くなる毛のシャツが肌着であったが、今はリネンのシャツを誰もが来ている。毛のシャツを着ているのは貧乏なウェールズ人だけである。パンも、昔のような皮つきの小麦粉や豆があるパンではなく、小麦だけの白いパンを食べることができる。これは、血液を甘くして、体液をふさわしいものにする。野菜もたくさん食べている。だからハンセン病は克服されたのだろう。
 
医学史的には、どの部分をあまり意味をなさない。でも、18世紀の経済発展を伸び伸びとたたえる態度は、不思議な好感を与える。
 
白い小麦粉で作ったパンについて。私は今でも皮を全部取って白くした小麦粉で作ったパンが好きである。トーストにしたり、日曜の朝にはフレンチトーストを作ってもらったりする。心の底では、このせいで健康なんだと思うけど、授業や論文ではもちろん言わないようにしている(笑)実佳は最初は困惑したけれども、誰にも迷惑がかからないし、実佳が有名なパン屋で買ってくるようなパンも食べるから、二人で食べるパンと私の白いパンと、二種類のパンを買ってくれる。
 
 
 
 

江戸時代の怪談と話における精神疾患

講演のメモです。生まれて初めて、日本の近世について人前で何かを話す講演じゃないかしら。うううむ。でもがんばろう。

 

耳袋 巻の四 「番町にて奇物に逢う事」

書き手の知人が知り合いの侍と二人で、秋の夜で風雨が強く、番町馬場のあたりでは前後往来も絶えるほどの大雨になり、提灯一つだけを紙の合羽の影にしていた。その道のかたわらに、1人の女子がうづくまっているではないか。合羽を着ているが、笠の類も見えず、女かどうかすら分からない。その脇を通り過ぎるときに、あれは何かと得と見ようかと言ったが、そんなことはしないほうがよいということになった。向こうから足軽使い風の男が二人来たので、勇気を得て戻って観てみると、そこには誰も何もいない。道の具合から、どこへも行きようがないのにと言いながら帰った。門をくぐる時に、寒気がして、翌日から瘧(マラリア)が始まって、20日ほどわずらった。連れの侍も同じように寒気がして20日ほど瘧で苦しんだ。そうしてみると、あの奇物は、瘧という病の「気」が雨中で形となったのだろうと。

なお、この作品は、ほぼ同じ形で、杉浦日向子さんが『百物語』という江戸の逸話から取ったマンガで取り上げていますので、ぜひお読みください。特徴があるタッチで、特別な疾病を起こす「気」が、秋の夜の大雨の中で何らかのかたちを取るという静かな恐怖を描いています。 

ここで取り上げられている疾病の「気」という概念は、東アジアの文化圏にとって非常に重要な概念です。気というのは、中国の医学の理論、人体と世界に関する哲学的な理論の中で中枢的な役割を持っています。医学においては、『黄帝内経』という中国で最も古く重要な医学テキストでも強調されている理論です。小曽戸洋先生のまとめを借りると、人体にかかわるあらゆる目に見えないエネルギーであり、人体は、この気と血を体内に巡らせる経路を持っており、十二経脈と言われています。この概念は、黄帝内経よりもさらに古い時代に遡ります。

この気が人体に影響を与える方法には、内因、外因、不内外因の三種があり、ここで問題になるのは外因です。これは六つの邪気があり、いずれも身体の外から侵入してくるという考え方になる。身体に虚があると、それに乗じて外から気が侵入して体を痛める。寒に傷られたのが傷寒であり、風に中てられたのが中風である。

このような、医学の具体的な技術の側面だけでなく、世界の構造や社会の構成、家族や夫婦のあり方においても「気」が重要になります。荘子は「人の生は気の集まりである。聚まれば生を為し、それが散じれば死を為す」と言っています。

そう考えると、先ほど紹介した瘧の気がこの世界に形容したという考えが、中国や日本の医学や思想の中で重要な何かに基づいたものであることが分かると思います。そして、近世の精神医療や精神疾患者への対応のある部分は、この気の考えに基づいています。

下―347 の説明を入れる <怪談集>の説明も入れる。

たとえば、人間ではなく動物の気なり霊なりが17世紀の末である寛文元年に刊行された『片仮名本・因果物語』では、甲州に住む或る関悦(かんえつ)という禅宗の長老が、伊勢と近江の堺にあるところで座禅して、その時に異相奇読を見た。その長老はそれを悟りを開いたと思い、他人を誹謗してうぬぼれるようになり、甲州に帰ったが、後に気が違って死んだ。彼が一緒に座禅をした広岩(こうがん)という長老は彼をよく知っており、彼が他の信者も傷つけていたことを語った。ある女が座禅を進められて寺に通い、30日ほどすると三尊の来迎があって、それが光輝いたから、悟りを開いたと大いに喜んだ。しかし、昼の行いや万のことは、前と同じである。それどころか、食べ物の好みも、猫のように変わって来た。そして、毎晩、猫がたぶらかして仏の姿を見せていた。この様子をある和尚が聞いて事態を見抜き、「その来迎とやらは皆妄想だ。このままだと気違い煩いになるぞ」といった。そして、その女についていた気が減り、座禅を辞めると、仏の来迎の妄想もやみ、平穏になった。 


耳袋 巻の四 「奇病の事」
松平宇京亮輝和という譜代の大名で、高崎城主8万4千石、寺社奉行大阪城代も務めたものが、家中の侍とその妻と愛人の話として以下のような物語を伝えている。侍の妻が病気で、やむなく里に帰していた。おそらく、精神疾患であったのだろう。その妻が言うには、「夫は外の女に心を寄せて自分を見捨てた。具合が悪いからといって実家に帰したのも、実は、その女の差し金である」とのこと。その様子は一通りの病気のようではない。この妻は、非常に容色が優れた女であった。一方夫は、容色はそうでもないが、体つきがたくましかった。妻が疑っていたある女は、茶坊主の娘であって、その男の体を見ては執心していたという。ただ、二人の間に不埒な不倫があったわけではなく、知り合っている仲というだけであったが、この女も発熱して、その時に、「男の本妻が私を恨んで呪詛している」などと口走っていたという。精神疾患の女が想像したの夫の不倫と、その相手と目された女が想像した妻による譴責が、空想世界の中で対話しているかのような例である。耳袋は、これも狐狸の仕業であろうと結んでいる。

 

根岸, 鎮衛, and 強 長谷川. 耳嚢. 岩波文庫. Vol. 黄(30)-261-1, 2, 3: 岩波書店, 1991.
高田, 衛. 江戸怪談集. 岩波文庫. Vol. 黄(30)-257-1, 2, 3: 岩波書店, 1989.
坂出, 祥伸, and 純代 梅川. 「気」の思想から見る道教の房中術 : いまに生きる古代中国の性愛長寿法. 心と教養シリーズ. Vol. 3: 五曜書房
星雲社 (発売), 2003.
小曽戸, 洋. 漢方の歴史 : 中国・日本の伝統医学. あじあブックス. 新版 ed. Vol. 076: 大修館書店, 2014.

医学史と映像の歴史

Cartwright, Lisa. Screening the Body : Tracing Medicine's Visual Culture. University of Minnesota Press, 1995.
 
今から20年以上前の刊行書で、医学と映画の問題が歴史学の主題になり、その成果を世に問うたごく初期の書物フーコーやドゥーデンといった当時の流行の枠組みが中心だが、19世紀末から20世紀前半の医学史のある部分を非常に深く鋭くつかんでいる記述が随所にあり、非常に面白く読んだ。大学のオンラインアクセスで読んだが、この本は紙媒体で持っておこうと決心して、紙の本を買った。3,000円くらいである。 イントロと第一章だけまとめるが、それ以降の各論もとても面白そうだった。
 
冒頭におかれたドゥーデンの事例が書物の基調を語る。女性の身体の内側を画像化して、体の内側から裏返しにして人体を表現するような一連の技術を再検討しようという試み。具体的には、木版画、X線、超音波画像である。カートライトの書物も、女性が取り上げらることが多く、また時期は19世紀末から20世紀中葉の医学研究における動画、あるいは医学や身体と関連する動画を取り上げている。身体の内部を画像化すること、そしてそれを動画で表現することが、20世紀の科学を通じた規律管理の方法であるという。生理学は、生命は複雑な組織のネットワークであり、それが変化しながら秩序を保つホメオスタシスの状態にいる。
 
リュミエール兄弟は映画を開発したのち、すぐに写真産業を始めた。これはカラー写真の開発であり、科学や医学で用いられる写真であった。医学では、「ノン・ピクトリアルな」表象が重要になっていた。筋運動描記法、キモグラフ(血圧や呼吸などの波型曲線記録器)、心電計などが、身体の内なる動きを記録していた。ここには、患者の身体との接触が必要であり、また患者や人が意図しない身体の動きに関心が集まった。くしゃみをする美少女の連続写真が企画され、女性の犯罪者などの瞬間を切り取った写真などが撮られた。

アフリカのトライブごとの芸術の入門書

Bacquart, Jean-Baptiste. The Tribal Arts of Africa. 1st pbk. ed ed.: Thames & Hudson, 2000.

f:id:akihitosuzuki:20170813113511j:plain

 

アフリカの芸術をトライブごとに説明してくれる素晴らしい入門書を、実佳がロンドンのRAで買って送ってくれた。心から感謝。これで、アフリカの芸術が少しは分かるようになる。

私は総じて無趣味な人間だが、趣味としてはアフリカの仮面を集めている。アフリカの仮面を買う時に、売り手はもちろん国の名前では言わず、トライブの名前でいう。アザンデとかドゴンとかヨルバなどである。このトライブの名前は、ほとんどが聞いたこともないものである。これが分からないとアフリカの芸術の世界に入っていけない。(「備前焼」「益子焼」などの地名が重要なユニットになる日本の陶芸の世界に少し似ている) 先日、プヌ族の仮面を買おうかと実佳とメールで相談したりしたので、トライブで調べることができる便利な美術書を買って送ってくれた。既に膨大な量に達している研究に基づいて、トライブの芸術の特徴を社会に絡めて4ページずつでまとめ、よくわかる画像を付した素晴らしい書物である。

 

 

中国タバコの世界

川床, 邦夫. 中国たばこの世界. 東方選書. Vol. 33: 東方書店, 1999.
 
著者は東大農学部を出て日本専売公社に入社して、インドや中国にタバコの栽培を教えに行った。そこで、各地のタバコの利用についての知識を得て、本書を書いた。これが、ものすごく面白い。植物学、歴史学、農学、タバコの社会的な側面など、多様な領域のことが描き込まれた一冊である。もとは図書館で借りたが、すぐに中古の本を買っておいた。歴史の話、タバコに関する民話の話、有名人とタバコの話など、面白い話が多い。魯迅は仙台でタバコを憶え、シガレットの両切りの「リリー」を吸っており、友人に必ず「お前も吸うか?」と勧めたとのこと。
 
タバコに関する詩もいい。
 
『神農』に見るに及ばず 『博物』にも幾たびか かつて聞く
仙翁の火を吐くに似て 初め異草の薫りかと疑う
腸に充ちて滓濁なく 口より出ていんうんあり (いんうんは、「気氳」のような漢字。雲霧煙気がたちこめる部屋のことで、万物流転の中国哲学用語)
妙趣は偏に相想う 喉にまつわる一朶の雲 
 
これをメモしたのは、「一朶の雲」。この言葉は、司馬遼太郎坂の上の雲』で使われている。司馬の作品はそれほど好きではないが、「一朶の雲」というセリフは私にとって大切な言葉である。その言葉を、これまで司馬遼太郎でしか読んだことがなかったから、メモしておいた。陳元龍という清代の進士の作品である。
 
「阿片」は opium を中国風に音訳したとのこと。知らなかった。
 
水タバコは何かを初めて知った。ドクトルマンボウの冒頭で出てきて、その時から何だろうと思っていたものである。中国の辺境で売られている。長さは75センチから1メートルくらいあり、タバコというより野球のバットかゴルフのクラブのような感じである。
 
マホルカタバコも知った。ロシア語の maxopka の音訳。馬合とか莫合などと書く。ルスティカタバコの葉を粉にして、これを新聞紙で巻く。新疆ウイグル自治区で吸われている。シガレットに圧されて、1980年代ですでに激減していた。ちなみに、パプアニューギニアもマホルカを吸うが、こちらは長い新聞紙で巻き、世界で最も多く新聞紙を吸う国と言われているとのこと。
 
ビンロウに関する陰陽の話をメモ。仲の良い夫婦の妻が臨終のときに自分の墓からびんろうの木が生えるから、その実を採って噛むと憂さを忘れるわよという。噛んでみたら素晴らしい。この実は結実するときに、初期には形まで女陰に似ている。これが女だとすると、男性の実はビラ(キンマ)であり、石灰はその淫水である。キンマを調べて意味が分かったが、なんだその無理やりの陰陽説は(笑)
 
 
 

731部隊によるペスト保菌ネズミの検査法の研究

 
保菌についての史料を読んでいたら、満州でペストを保菌している鼠を研究した論文が出てきた。執筆者は春日忠善(かすが ちゅうぜん)1940年に「ペスト沈降反応の特異性に関する研究」という博士論文で慶應義塾大学から博士号を得ている。没年近くだとおもうが、1990年に3ページくらいの追悼記事が書かれているのでそれを後から読む。731部隊と関係が深い人物である。個人を焦点にした研究はないようであるが、ネット上では、731部隊に所属していたが、戦後に栄誉ある職を歴任して多くの学術賞を受賞したことで批判されている。また、731部隊の研究で優れた業績を上げた常石敬一が『戦場の疫学』の脚注で、この論文を含めて春日に何度も言及している。哀しいことに、この書物の5章は、本文と脚注の構造が崩れていて、脚注11を超えると、本文に註が打たれていないのに脚注だけが現れるという宜しからぬことになっていて、常石が何を言いたいのかよく分からない。
 
ペスト 抗 Env. P 沈降素血清が、ペスト感染動物臓器の加熱食塩水浸出液ともに、特異的に反応すること。保菌ネズミの検査法のうち、最も優秀な方法であること。この2点が主たるポイントである。
 
731部隊の犯罪として、中国人やソ連人の捕虜や政治犯で人体実験を行ったことが最も悪名高いが、その様な人体実験を行った理由は、主にペストを用いた生物兵器を開発し、実戦で用いたからである。731部隊の特徴は、生物兵器としてペストを用いる作戦を、詳細にわたって考えていたことになる。そう考えると、この春日論文の幾つかの部分が説明しやすい。実際にペスト流行があった村の患者がいた家屋、村から捕まえたネズミ、周辺の村で捕まえたネズミが、ペスト保菌状態になった状態でそれを迅速に検出する方法の開発という論文の目標は、たしかに生物兵器の効果を空間的に把握する目標とつなげて考えることができる。それから、いくつかのペスト菌の種類というか系列を持っていて、その系列を、保菌ネズミから逆に特定できるかということを考えているのも、生物兵器の利用と関係があるように見える。もちろん、そうではない、これは保菌状態のネズミをできるだけ早く発見する防疫の実験であると反論することもできる。
 
ペストのエンベロープというのは、昭和13年に刊行された細菌学の教科書を読むきちんと説明されている。ペスト菌を普通寒天で37度で培養すると、菌体の周囲にゲラチン様の膜ができる。これを envelope substance という。これを、菌体浮遊液を60度で加熱して菌体から離し、上層に集めて、これを遠心機を利用して菌体から分離することができる。ここには、somatic antigen は含有されていない。これは、ペスト菌の特異性を決定し、これで動物を免疫すればペスト感染に対する防御免疫力を与える。 倉内喜久雄という731部隊の医師が、これを用いてペストの新しいワクチンを作成した。
 
中村, 豐. 細菌學血清學檢査法. 増訂2版 ed.: 克誠堂, 1938. 1021-1022.  に書いてある。 
 

パウル・エールリヒという変人医学者

De Kruif, Paul, and 寿恵夫 秋元. 微生物の狩人. 岩波文庫. Vol. 青(33)-928-1-2,33-928-1-2: 岩波書店, 1980.
 
ポール・ド・クライフというアメリカの科学ジャーナリストが1926年に出版した書物 『微生物の狩人』Microbe Hunters は、おそらく歴史上最も売れた医学史の書物である。アメリカでは当時(おそらく)100万部の大ベストセラーとなり、日本語訳もすぐに刊行された。現在でも岩波文庫で読むことができる。私は本が何部売れたかを調べるツールを持っていないので見当がつかないのですが、これ以上売れた医学史の書物に心当たりがある方がいますか? 
 
ベストセラーになった本書だが、医学史の先生として言うと、本当は読んではいけない(笑)。だってあまりにも面白すぎるし、そして何の註もついていない。アメリカ人のジョークがほとんどですよと言われても、まったく驚かない。でも、実は、もちろん読んでいる(笑)今回も、パウル・エールリヒについての、おそらく本書で一番面白い章を読んだ。以下はド・クライフの書物のまとめ。もっと真面目な文献を読みたい方は、パウル・エールリヒ研究所に非常に充実したサイトがあり、彼の論文は非常にたくさんPDF化されているし、彼に関する文献に一発で到達できるので、そちらを参照されるとよい。サイトは以下の通り。
 
 
エールリヒは最強の変人である。おそらく多くの学者はこうなりたいだろうと思う。私自身も、かなりこうなりたい。少なくとも、こういう同僚がいると、大学は楽しいと心から思う。学部は別の学部でなければいやだけど(笑)
 
エールリヒはユダヤ人で、飲酒、喫煙、そして中年以降は炭酸水の愛好家だった。お酒は主にビールで、研究所の小使いと毎晩のみ、学者が尋ねていくとビールを飲んだ。タバコはシガー(葉巻)で、それを一日20本。シガーは研究所はもちろん、自宅のベッドでも吸っていた。部屋は世界中から集めた雑誌でいっぱいで、ネズミがそこで巣をつくっていた。雑誌を買いすぎ、高いシガーをたくさん吸い過ぎたせいで、いつも貧乏だった。高級な芸術や音楽や文学には何の興味もなく、安手の時代小説を読んでいた。人々は「夢想家先生」と呼んでいた。「じつに奇妙な、頭脳の働きのどこかが間違っているのではないかと思われるような、非科学的な妄想に捉われていた」という。
 
医学部に入って、非凡な学生ではあった。ラテン語を憶えるのが得意で、この能力は終生続いた。しかし、医学生としては最低だった。先生に言われたことをやらない。用語を憶えない。死体から薄片をつくれと言われると、それを色素で染めて喜んでいる。医者としては無力であり、無能であった。患者や病人を相手にしなくてよい「科学者」のポジションが医学教育の中に作られて本当に良かった。また、彼は無神論者であったので、人間神が必要であった。その役目は、ロベルト・コッホが担った。コッホが「発見」した結核菌は、コッホのもとで助手であったエールリヒも観察していたものであり、それを染める技術は、エールリヒが提供したものであった。
 
免疫について色々考えていたが、色付きの奇妙な図を次々と書いて、意味不明なことをしゃべりまくって悦に入るだけだった。なぜそんな説が成立するのか理解できない奇怪な説を唱えていた。学会で論破されると、帰りの電車で怒りまくって「あの男は恥知らずのアナグマだ!」と数分おきに大声で絶叫し、車掌ともめごとになった。しかし、大発見を次々と行い、数々の栄誉に輝き、1906年にはメチニコフとともにノーベル賞に輝いた。でも、そんなことはエールリヒにとってどうでもよかった。
 
1909年に梅毒を治療できる606号、いわゆるサルバルサンを発見した。世界中に衝撃と興奮が走った。人類を広範に深く侵していた疾病が治るようになったのである。1910年の学会で報告した時には、聴衆の拍手が永遠に続いて、講演時間がなくなってしまうほどだった。エールリヒもさすがにうれしかったらしい。しかし、この段階で彼は抜け殻になっていた。この発見を称して、7年間の血みどろの痛ましい年月のあと、幸福だったのは一瞬だけだったと言っているという。 
 
・・・ほら、面白すぎるでしょう?(笑) 
 
この変人に、日本の細菌学者が二人仕えている。志賀潔と秦佐八郎である。どちらも、献身的に仕え、無類の手先の正確さと長時間の仕事をやりぬいた。日本が上昇するときに、確かに必要な態度であった。しかし、別の仕方で独創的な研究をする態度を、大学や大学院は考えなければならない段階に入っている。