道修町の御朱印

http://www.sinnosan.jp/gosyuin.html

 

大阪の薬屋の集積地であった道修町にはミュージアムがあり、一年に3,000円で季刊の通信が来る。医学史の研究者はよろこんで読む。実は今日はじめて知ったのだけれども、少彦名神社(神農さん)が御朱印を出しているとのこと。これは日本医薬総鎮守で、病気平癒・健康成就の社だと自ら宣言しており、御朱印を出しているとのこと。御朱印というのは、元々は写経したお経を寺院に納め、その証として授与されたものだが、近世初期には神社にも広まり、この少彦名神社が数年前から出しているという。今度行ったときに、この御朱印を頂いてこよう。

 

医学史と社会の対話ー優れた記事の紹介⑯

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東大の大学院生である藤本大士君による書評。塚田孝『大阪 民衆の近世史ー老いと病・生業・下層社会』(2017)の書評です。

もともとは「文字を書くことができなかった民衆がどのように医療を受けたのか」と書いたのですが、近世日本の社会は下層社会であっても文字が書けたというご指摘をいただきました。本書の序章を読んで、「名もなき人びとの生きた意味」をさぐることであり、「現在を生きているわたし自身の生きる意味の自己確認」を試みる優れた書物の書評です。ぜひご覧ください!

 

法定伝染病のウェブ上データベースの復活!

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友部謙一先生を研究代表としたプロジェクト「クロノス」。その中の疾病班が公開した法定伝染病のデータベース。1876年から1959年までの期間に関して、法定伝染病に関して府県別・月別に死者数と患者数を掲載したデータベースです。関東の県と関西の県の月別患者数の違いなど、かなり高級な要請にこたえるデータベースです。しばらく閉鎖していたのですが、花島誠先生にサイトを復活いただき、使えるようになりました。

冒頭は、天然痘の全国の患者数のグラフです。1886年の約73,000人という患者数がこの時期で最大です。府県で言うとどこだろう?という疑問に答えたければ、もちろんデータベースが提供しております。ぜひご覧ください。

 

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薬袋紙(やくたいし)についてメモ

薬を包む「薬袋紙」(やくたいし)についてメモ。私が子供のころの50年くらい前には、薬袋紙に粉薬が分包されている光景がかすかに記憶に残っている。読んだ本は池田寿『紙の日本史ー古典と絵巻物が伝える文化遺産』(東京:勉誠出版、2017)

ヨーロッパ・イスラムと日本の医療や治療の違いを考えるとき、いくつかのヒントがある。前者においては体液の操作が治療で重視され、後者では薬が重要であるということである。ヨーロッパではやはり瀉血や下剤が中心となった。一方で、日本では、相対的な強さにおいては、薬が強く、瀉血と下剤が処方される割合は少ないという印象を持っている。もちろん江戸時代の古方は下剤に熱く注目する方法だが、それがどれだけ激しい反論を読んだのか、そして明治以降に西洋医学が中心になってから、日本の漢方医学も古方らしさを強めたことも、<もしかしたら>19世紀のヨーロッパ医学の体液性を語っているのかもしれない。

池田が論じている箇所は短いが、とても面白い。『かげろふ日記』、奈良西大寺から発見された叡尊の筆で五薬五穀と書かれている薬袋紙もある。ここで薬を包む仕方は『香薬包様』だという。17世紀の笑い話の『醒睡笑(せいすいしょう)』にも言及されている。南北朝時代の創作である『福富草紙』においては、薬師は、薬研で磨り、棹秤や分銅で重さをはかったものを、薬袋紙に包んで患者にあげるというシーンが描かれている。江戸時代には、薬袋紙は、富山の薬売りと知られた越中八尾産の紙と土佐特産の紙があった。引っ張っても破れない強さ、厚さにむらがない紙であった。

中野操「想い出の富士川游先生」

思文閣が復刻している日本医史学会の機関紙『日本医史学雑誌』(昭和2年から15年末まで『中外医事新報』のタイトルで刊行)の月報を読んでいて、面白い記事があったのでメモ。「月報1」の中野操「想い出の富士川游先生」からである。

日本医史学学会がつくられたのは昭和2年、大阪には昭和13年に別の医史学の学会が作られることとなった。会名は杏林温故会、会員は全国から同好の士をつのること、機関誌は『医譚』という名称であることなどが決まった。その時に、日本医史学会の指導者であった富士川游から祝辞をもらうことができた。その祝辞を転記しているのがこの記事である。祝辞はとてもよく、現在の多くの古いタイプの医史学者にとって心が洗われる文章であろうし、私のような新しいタイプの医学史の研究者も深く感じることができる個所が多い。一方で、いまから80年前の医史学研究にはこの視点がなかったのだなと思う点もある。富士川の祝辞の素晴らしい個所を2か所、そして足りない視点を1か所指摘したい。

まずは、医学史と科学史の違いの形で書いている文章である。これは、現在の多くの科学史家も富士川のような捉え方に共感していると思う。富士川の文章は、医学史には、科学史のような思想の歴史だけでなく、文化と社会の中の実践も必要であるということである。

「医史学は固より科学史として医学に於ける思想の発達を史学的に検討するものであるが、しかも文化史としてその研究の範囲はこれに限るものではない。医学を応用する実際的方面の医術、又医術を実施する医人の地位などに関しても史学的に研究せねばならぬ。」

科学史の思想への注目だけでなく、より広い文化に着目すること、そして医療を行う医者に注目しろという議論である。

次が、疾病に対する注目である。富士川はこのように書いている。

「医術の対象たる疾病そのものにつきても種々な方向から検討をなさねばならぬ。」

19世紀末から20世紀初頭に青春を過ごした富士川らの医史学者が疾病の歴史に注目したことは、ある意味で自然なことである。彼らが生きていた時代が、コレラを中心とする伝染病に蹂躙されていた時代である。現在の日本の三分の一程度の人口で、10万人以上の死者を出すコレラの大流行などが続いているのである。疾病が実際に非常に重要な要因であった。同時代の欧米の医師や医学史家たちも、そのように考えており、帝国主義時代の世界のエコシステムを理解していた。

このように、文化史としての医学史、そして疾病の重視。いずれも現代の新しい医学史研究者が共感する部分であり、それが80年前に出てくるところは、さすが第一人者であると感心する。

一方で、富士川の祝辞にないものがある。単純な話であるが、「患者」である。私たちが「ヒポクラテスの三角形」と呼ぶ、医療者、疾病、そして患者という発想を富士川は持っていない。ある意味で患者なしで考えたのが、富士川の医学史あるいは医史学であることは、憶えておいたほうがいい。

医学史と社会の対話ー優れた記事の紹介⑮

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レーウェンフックは17世紀のアマチュア顕微鏡観察家。微小なものや微生物を観察して数多くのイラストに残したことで知られています。田中祐理子先生は研究の文章であり、レーウェンフックを日本に紹介する文章でもあり、そして共同研究者を募る文章でもあります。17世紀後半の顕微鏡イラストと考察を田中先生とご一緒に行ってみたい方、ぜひご一読ください!

1979年のバイナム先生と中井久夫先生

ビル・バイナム先生はロンドンのウェルカム医学史研究所の黄金時代の所長である。イギリスにとって新興の医学史がめざましい成長をして、あっという間に世界一の医学史研究の国になる激動の時期の中核だった。バイナム先生はもともと医師であるということもあり、とても面白い人生を歩いた先生である。医学を学び、ドイツ/アメリカの伝統的な医学史の圧倒的に優れた視角を持ち、そこにイギリスの新しい医学史の視点が入って、多様な医学史の発展を支えた学者である。彼が引退後に書いた Short History of Medicineや Short History of Science などの著作は、すでに14の外国語に翻訳され、世界の偉大な指導者になっている。

バイナム先生が日本に最初に紹介されたのは、おそらく1983年である。その著作は中井久夫「概説ー文化精神医学と治療文化論」『岩波講座 精神の科学』の第8巻『治療と文化』(1984) に掲載された論文である。 この論文は1990年の同時代ライブラリー、2001年の岩波現代文庫として刊行された日本の精神医学の名著の一冊である。この著作にバイナム先生が面白い仕方で登場する。

「ある英国の青年医学史家は、一シンポジウムにおいて私に『日本ではキツネが人につくが、ヨーロッパ」ではわれわれのほうがキツネをうつ』といった( Bynum バイナムとの雑談。1979年)」

1979年にバイナム先生が「青年医学史家」として中井先生に話しかけたことを憶えておこう。キツネがどうのこうのというのは、どこで学んだのだろう。ちなみに、「雑談」という日本語にルビをふる形で「コーズリー」と書かれている。このルビもどういう意味なのかわからない。