中野操「想い出の富士川游先生」

思文閣が復刻している日本医史学会の機関紙『日本医史学雑誌』(昭和2年から15年末まで『中外医事新報』のタイトルで刊行)の月報を読んでいて、面白い記事があったのでメモ。「月報1」の中野操「想い出の富士川游先生」からである。

日本医史学学会がつくられたのは昭和2年、大阪には昭和13年に別の医史学の学会が作られることとなった。会名は杏林温故会、会員は全国から同好の士をつのること、機関誌は『医譚』という名称であることなどが決まった。その時に、日本医史学会の指導者であった富士川游から祝辞をもらうことができた。その祝辞を転記しているのがこの記事である。祝辞はとてもよく、現在の多くの古いタイプの医史学者にとって心が洗われる文章であろうし、私のような新しいタイプの医学史の研究者も深く感じることができる個所が多い。一方で、いまから80年前の医史学研究にはこの視点がなかったのだなと思う点もある。富士川の祝辞の素晴らしい個所を2か所、そして足りない視点を1か所指摘したい。

まずは、医学史と科学史の違いの形で書いている文章である。これは、現在の多くの科学史家も富士川のような捉え方に共感していると思う。富士川の文章は、医学史には、科学史のような思想の歴史だけでなく、文化と社会の中の実践も必要であるということである。

「医史学は固より科学史として医学に於ける思想の発達を史学的に検討するものであるが、しかも文化史としてその研究の範囲はこれに限るものではない。医学を応用する実際的方面の医術、又医術を実施する医人の地位などに関しても史学的に研究せねばならぬ。」

科学史の思想への注目だけでなく、より広い文化に着目すること、そして医療を行う医者に注目しろという議論である。

次が、疾病に対する注目である。富士川はこのように書いている。

「医術の対象たる疾病そのものにつきても種々な方向から検討をなさねばならぬ。」

19世紀末から20世紀初頭に青春を過ごした富士川らの医史学者が疾病の歴史に注目したことは、ある意味で自然なことである。彼らが生きていた時代が、コレラを中心とする伝染病に蹂躙されていた時代である。現在の日本の三分の一程度の人口で、10万人以上の死者を出すコレラの大流行などが続いているのである。疾病が実際に非常に重要な要因であった。同時代の欧米の医師や医学史家たちも、そのように考えており、帝国主義時代の世界のエコシステムを理解していた。

このように、文化史としての医学史、そして疾病の重視。いずれも現代の新しい医学史研究者が共感する部分であり、それが80年前に出てくるところは、さすが第一人者であると感心する。

一方で、富士川の祝辞にないものがある。単純な話であるが、「患者」である。私たちが「ヒポクラテスの三角形」と呼ぶ、医療者、疾病、そして患者という発想を富士川は持っていない。ある意味で患者なしで考えたのが、富士川の医学史あるいは医史学であることは、憶えておいたほうがいい。