序論―「医学史」とは何か
説明的な序論を書きました。皆様のコメントが非常に参考になった部分です。
序論―「医学史」とは何か
「医」とそれにまつわる人物・学問・実践・現象の歴史を研究する「医の歴史」は世界各地においてきわめて長い歴史を持ち、20世紀初頭のドイツ語圏で明確な学問の形をとった。これをドイツ語では Geschichte der Medizinといい、英語では history of medicineという。このような研究は1980年代の欧米、特に英米において急速に拡大・変質して「新しい医の歴史」と呼べる領域が確立して世界各地に広がり、日本においても1990年代から類似の領域の急速な発展が始まって現在にいたっている。そのような経過をたどった「医の歴史」研究の過去・現在・未来を論じることがこの小論の目標である。
この小論は、直訳すると「医の歴史」となる history of medicine を「医学史」と訳す方針をとる。「医の歴史」は、大別すると、学問としての医学の歴史、実践としての医療の歴史、患者の経験としての病気の歴史、疾病と健康と身体の歴史などに分けることができるが、これらを切り離さずに同一の領域にとどめることには大きな意味がある。個別の研究が医学・医療・患者・疾病などの個々の要因に集中することはもちろん許されるが、新しい医の歴史においては、それらの要因が相互にどのような関係を持ったか、すなわち学問と実践と経験と環境がどのように連関したのかを問うことが重要な新しい視点を切り開いてきたからである。そのような可能性を含みこんだ「医の歴史」という枠組みを日本語の単語でも保持しなければならない。純粋に言葉の意味でいうと、もっとも適切な訳語は「医史学」であり、日本医史学会もこの名称を採用している。しかし、「医史学」という単語は学会の外ではあまり使われないという欠点を持ち、Google 検索すると、53,000件ほどしかヒットしない。「医療史」と呼べる視点は、新しい医の歴史の主流であるが、検索ヒットは26,000件と少なく、また、医者・医療者と患者からなる臨床に特定された意味を持つ言葉であり、全体概念の単語にはならない。「医学史」は、検索ヒットは「医史学」の10倍以上の65,9000件であり、現代の日本では「医史学」よりもはるかに頻用される言葉である。たしかに狭義の学問的な意味での医学の歴史だけのように誤解される欠点はあるが、それは個々の研究者の意識と成果によって正すべき事柄であろう。