<ジャンル>と狂気の意義づけという視点

Huot, Sylvia Jean. Madness in Medieval French Literature: Identities Found and Lost. Oxford University Press, 2003.

中世フランス文学における狂気の表現を分析した書物。最初はルーティーンのチェックのつもりで開いたが、読み始めたらとても重要な視点で分析している。文学作品がジャンルになっているという主題で、次に書く論文の核と関係している。明日の午前中は薬、この本は夕刻に読んでみよう。

聖人伝とロマンスという二つのジャンルに出てくる狂気は、どちらに出るかによって狂気をどう描くかが大きく違っているという議論である。一方で聖人伝の狂気の意味付けがあり、もう一方でトリスタンのようなロマンスに出てくる狂気の意味付けがある。この二つは異なるだろうという組み立てである。色々と調べることが死ぬほど多い議論だが、もう少しかっちり理解しておこう。

 

英語教育と「内なる外国人」の発想

北山修 et al. 「内なる外国人」: A病院症例記録. みすず書房, 2017. 
 
どう面白いのかよく分からないけれども、博士とポスドクの7年間を英語で訓練された自分はどうなるのだろうと考える書物。大きな訓練を英語や外国語でしている学者は考えると面白いと思う。
 
北山修とおっしゃる精神科医精神分析医がいる。数多くの書物、論文、一般書を書いてきた。若い頃はフォークソングの優れた作詞家として活躍し、『戦争を知らない子供たち』のように、私たちが今でも口ずさむ歌の多くを作詞している。京都府立医科大学を卒業した後に、ロンドンに行き、精神医学と精神分析を学んできた。その時の英語の症例記録を二つ収録したものである。その英語マテリアルを、若手の医師や臨床心理士たちが、翻訳し、解説や注釈をつけている。
 
この書物の成立、あるいは中枢である症例記録は、最初から英語と日本語の両面性を幾つかの段階において抱き込んでいる。まず現場で英語の精神医学を学ぼうとしている日本人であるという両面性である。英語で患者と接して患者を分析して変化を起こさなければならない。頭の中では日本人が日本語で考えている。その間で<わたし>という通訳がずっと機能している。外なる英語と内なる日本語という形で言葉が二つあり、自我は頭の中で、その二つに二股をかけている。
 
フロイトは、この二重性を、エディプス・コンプレックスを発展させて理解していた。人間は「自我にとっての外国」を持ち、それは精神の中にあって「内なる外国に他ならない」と言っている。その仕組みを、実際の人生と診療において二つの言語を実践していると考えたらいいのだろうか。北山は「海外で精神分析のことを学び、その実践を日本で行いながら、またそれを海外で発表したりを繰り返す」と考えている。これが「内外の境界に立つ」ことなのだろうか。そしてそこには「言葉の壁」がある。古澤平作の阿闍世コンプレックスや、土居健郎の「甘え」は、外国では理解されることが非常に少なかった。

春の英語セミナー+George Makari 先生

例年の英語セミナー、3月23日(土曜日)に実施いたします。ご自身の関心がある主題について、ぜひ英語で論文発表をしてください。 それを希望する方は、私にご連絡ください。 
 
今回の特別アトラクションは、NYとコーネル大学精神科医ジョージ・マカリ先生がいらっしゃることです。医師であり歴史家であるという二つの視点を組み合わせた卓越した学者であり、数々の賞を受けておられます。今回は、マカリ先生のご著作を、成蹊大学の英文学者の遠藤不比人先生がみすず書房から翻訳されたことを記念してのご来日です。遠藤先生の特別なご好意で、マカリ先生が日吉にいらして、ワークショップでコメントをしてくださいます。ぜひ論文を読み、マカリ先生とお友達になってくださいませ。マカリ先生の拠点であるマンハッタンのコーネル医学校の精神医学史図書館は、私は一度だけしか使ったことがありませんが、まさに素晴らしい場所です。
 
マカリ先生のお仕事については、以下のサイトをご覧ください。
 

en.wikipedia.org

 

日程:2019年3月23日(土曜日)

場所:慶應日吉キャンパス来往舎

構成:1演題50分(発表30分、質疑応答20分)、休憩10分

言語:英語

ヴェスパの歴史と神話

www.academia.edu

 

私はオートバイの免許を持っていないが、憧れるものの一つである。自転車は好きだったし、自転車とオートバイを合体させたマシンはもちろん買った。オートバイの技術や歴史はきっと面白いだろうと思う。オートバイと言っても、ナナハンとか、ハーリー・ダヴィッドソンのような重量級ではなくて、 Vespa という軽量級のオートバイに惹かれることも確実である。若い頃に、何回かヴェスパが印象的な仕方で出てきたし、『なんとなく、クリスタル』にすら登場している。でも、その歴史などについては何も知らない。

その無知は私だけの問題ではなく、イタリア人の問題でもあるとのこと。イタリア人にとってヴェスパの起源なり発展なり歴史なりは、すべて神話の世界に入っているとのこと。ことに、その機械の部分が最先端の航空産業と一体化していたとのこと。それを独創的な仕方でオートバイに導入したとのこと。そんな時間はないけれども、この本を読まないと、ますます神話に世界に入ってしまいます(笑)

1900年のアヘンチンキの国際比較

日本の薬学の歴史において、<日中薬用量相違>という問題がある。私が知る限りでは貝原益軒『養生訓』が最初にそれを指摘している。それから300年ほど続いている(と思う)大きな謎である。

簡単に言うと、同じ薬であるのに、日本と中国を較べたときに、薬の量が日本はとても少ないという点である。同じ年齢、同じ性別、似たような程度の症状であるのに、だいたい1/3 から 1/10 くらいの、ものすごく少ない量で、日本においてはその薬が効く。日本は1匁、中国では3匁から10匁すらが一服である。なぜかという問いに対して、貝原益軒は3つの要因を出している。以下のサイトの第7巻を読んでいただきたい。

www.nakamura-u.ac.jp

 

実は、同じような現象が19-20世紀の日本において西洋の薬と並行して起きているかもしれない。上村直親と林春雄の二人の医師が書いている『日本内科全書』の「薬物療法」を読んでいたら、よく似た事例があった。1900年近辺であるが、ヨーロッパ各国と日本を較べると、同じ薬の名称だが、そこに含まれている量が違うということである。これは「アヘンチンキ」という名称の薬剤で、モルヒネの割合はどのくらいかという話である。一覧表にするとこうなる。

日本    0.4-0.44%
イギリス  0.75%
ドイツ他 1.0%
合衆国 1.2% - 1.25%

江戸時代の日中の比較と同じように、アヘンチンキでは日本はアメリカの1/3のモルヒネの強さしかない。もちろん、日本のアヘンチンキは薄いから量はアメリカの3倍だけ使うというなら、一貫している。でも、たぶん違うような気がする。日本人が使うモルヒネアメリカ人の 1/3 であるような気がする。どう調べればいいのか、これまでしたことがないけれども、少し調べてみよう。エール大学のウォーナー先生の見事な分析を引用する箇所になると思う。

 

 

中尾さんから論文集を頂きました!

長崎大学の医学部で、20世紀の科学や医学の歴史研究の国際的な拠点を築いている中尾麻伊香さん。『科学者と魔法使いの弟子ー科学と非科学の境界』という書物を頂きました!これまで書いた中尾さんご自身の論文を集めた書物です。ぜひお読みください!

 

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長崎に国際的な研究のベースを築き上げている中尾さんの論文集です!

 

チョコレートとココアの魅力の第二弾(笑)

akihitosuzuki.hatenadiary.jp

 

実佳がロンドンからホットチョコレートを買ってきた。もちろんとても美味しい。1年ほど前に、ココアとホットチョコレートの違いを知り、ホットチョコレートは高価だけどやはりおいしいねという動機があったから、ロンドンで買って、楽しんで飲んでいる。

ところが、今年は、ホットチョコレートの別の側面に出会った。ホットチョコレートの適切な量が、イギリスの標準よりも非常に少ないことである。説明書に書いてあることは、ミルクを150ml温めて、本品を<テーブルスプーン>に2杯とのこと。テーブルスプーンは1杯で15ml だから、2杯だと30mlの体積 になる。実際にこの量で入れてみると、出来上がりのホットチョコレートは、おいしいというより、どんみりとした、濃厚なパンチ力がある代物である。私たちが美味しいと思うのは、150ml に<ティースプーン>1杯である。これは5ml くらい、少し山盛りにするから7ml くらいかもしれない。イギリス標準の1/5 から1/4 である。

ホットチョコレートが美味しいと言いながら、実はココアに近い、超薄のホットチョコレートが好きなのだという結論になるのだろうか。好意的に眺めて、微笑ましいと言ってください(笑)普通に言うと、やはりココアで十分だということなんでしょうか(笑)