幻覚と錯覚

週刊医学界新聞の楽しいコーナーの医学と語源。今回は幻覚と錯覚のとても面白い比較。
 
幻覚は刺激がないのに知覚を生じるもの。幻視・幻聴が多い。幻聴の中では、音楽性の幻聴が有名であり、側頭葉や「橋」の脳卒中の後に発生する。有名であると書いているのは、おそらくザックスの著作によるものだろう。それから、「橋」というのは、読み方は「きょう」であり、「中枢神経系を構成する重要な部位が集まる「脳幹」に含まれる部位」である。もともとは、16世紀に活躍したイタリアの解剖学者 Contanzo Varolio (1543-1575) により、橋という意味のラテン語 pons と命名された部位である。現在でも日本語で「ヴァローリオ橋」と言う。
 
幻という漢字の左半分は「いとがしら」。糸の先端部の細い部分である。右半分の「フ」のような部分は木にぶら下げるという意味である。二つを合わせると染色をした糸を木の枝にかけて、色が色々にかわる様子である。そこから日本語の「まぼろし」となる。これは<目(ま)惚(ぼ)かし>という感じになる。あるいは<目(ま)朧(ぼ)>という感じである。この「いとがしら」は、幼や幽などはそれと分かる。幾にはいっているのは分かりにくいが、これは幾何学の geometry の音であるとのこと。
 
錯覚は、対象を誤って知覚することである。この「錯」は、金属が色々と数多く存在している状態であるという。

中国医学の身体の国家アナロジー

加納喜光. 中国医学の誕生. vol. 2, 東京大学出版会, 1987. 東洋叢書.

 

中国医学を少しずつ勉強している。学術的な講演では役に立たないけれども、背景の一つとして知っておくといい。

 

加納先生は中国医学のテキストを数多く読んでおり、西欧医学やインドの医学に関しても知識が広い。著作も読んで非常に楽しい。1970年代から80年代に開花した楽しい人文学であり、イラストも楽しい。そこで議論されている多くの論点の一つが、身体の国家アナロジーがある。薬では君臣佐使という儒教的な役割分担があったことを少し考えたが、身体の臓器においても国家にあてはめて考えるとのこと。漢代にはいるとそれが進展したとのこと。

 

中国では心臓が身体国家の中心であった。古代ギリシアプラトンが頭脳を中心においたことに対し、古代インドでは心臓に蓮華をおいた美しい様子を示したという。一覧表を作っておいた。

 

 

『素問』霊蘭秘典論

将軍之官

君主之官

倉〇之官

相伝之官

作強之官

『霊枢』五〇津液別篇

『千金要方』巻11

郎官

帝王

諌議太夫

上将軍

後宮内官

『中蔵経』巻上

 

帝王

諌議太夫

上将軍

 

『張仲景五蔵論』

将軍之官

帝王

太夫

丞相

内官

『五蔵論』(医方類聚引巻4)

尚書

帝王

諌議太夫

丞相

列女

 

「蓮華」を調べておいた。もちろん蓮の花のこと。馬鹿ですから田んぼで咲くレンゲではないことを、念のため(笑)

 

蓮華
れんげ
蓮(はす)の花。仏典では、ウトパラutpala(優鉢羅華(うはつらけ)、青(しょう)蓮華)、パドマpadma(波頭摩華(はずまけ)、紅(ぐ)蓮華)、プンダリーカpurīka(分陀利華(ふんだりけ)、白(びゃく)蓮華)、クムダkumuda(拘物頭華(くもつずけ)、黄(おう)蓮華)を列挙するが、ウトパラは睡蓮(すいれん)で、パドマとプンダリーカが一般に用いられる蓮華である。インドのビシュヌViu神話では、ビシュヌのへその中から生じた蓮華の中にブラフマー梵天(ぼんてん))がいて万物を創造したという。「泥中(でいちゅう)の蓮華」というように、汚い泥に染まらず清らかで美しい蓮華は、仏典では清浄な姿を仏などに例える。仏・菩薩(ぼさつ)の座る蓮華の台を蓮台(れんだい)、蓮華座(れんげざ)という。『妙法蓮華経』は「白蓮華のように優れた教えを説く経」という意で経題に用いられている。『華厳(けごん)経』では、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の世界を蓮華蔵(れんげぞう)世界とよび、仏の住むこの世界を蓮華に例える。阿弥陀(あみだ)の浄土の蓮華の中に往生(おうじょう)することを蓮華化生(れんげけしょう)といい、密教では胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の中心に、八弁の蓮華の葉の上に、大日如来(だいにちにょらい)を中央に四仏・四菩薩を周りに配したものを中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)とよび、いずれも仏の大悲を表す。煩悩(ぼんのう)の汚れがなく、純粋無垢(むく)で清浄な状態を、仏身や、悟りの世界、浄土などと象徴的なものとして表現した。

近代精神医療への複数の流れ

細川涼一. 逸脱の日本中世. 筑摩書房, 2000. ちくま学芸文庫.
世阿弥、水野聡. 風姿花伝. PHP研究所, 2016.
 
日本の精神医学の社会史を考えるときに、複数の力が同時に存在して近代と現代の精神医療が作り上げられたと考えることがよい。精神医療を供給する医学・医療があり、欧米から導入したものもあるし、仏教や神道をベースにしたものもある。一方、精神医療を需要する側も存在し、そこでは三つの需要する力がある。一つは世帯の力、一つは福祉の力、もう一つは警察の力である。この三つの需要者が、相互に関係を持ちながら、精神病院に軸を置く形に移行していくことが日本の近現代精神医療が成立していく途上の様子であった。
 
世帯の力、あるいは家族の力は、日本社会にとっても、その狂気や精神疾患に関しても、それを表現した表象に関しても、非常に重要であった。ここでは表象について書くと、能や歌舞伎などの日本の演劇の大きな中心においても、世帯に関するその次に重要なことが、精神医療の需要者である患者と患者の家族の側の動きである。
 
風姿花伝世阿弥が15世紀に執筆したものであり、能を演ずることに関して論じた傑作である。その第二章は「物学條々」と題されて、能に登場するさまざまな役に関する心得が論じられている。国王、大臣、女、老人、法師、戦士、神、鬼などを演ずるときの心得が描かれている。その中で、最も長く、また深い分析があるものが「物狂」(ものくるい)である。これは、主役が、千々に乱れる心理を、遊舞や芸尽くしに昇華させたものであり、変化と見どころとクライマックスが多い。「隅田川」「班女」「蘆刈」などが物狂を中心とした作品である。
 
この中で、世阿弥は二種類の物狂を区別している。一つは、神、仏、生霊、死霊などが取り憑いた役、もう一つは、家族の軋轢の中で狂乱した役である。「親と別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に先立たれる、こうした思いに千々乱れる物狂こそ一大事である」という。その難しさは、これらを同じように狂い演じるだけでなく、違いを作り出さなければならない。そうすると、家族の誰とどのような緊張が生まれ、それが狂乱に至るかが伝わり、それが観客に感動や面白い見どころを感じさせる。神仏や霊よりも、家族の枠組みの方が、能にとって重要であるという。
 
 

医学におけるメタファー

The Public Domain Review. Selected Essays.
Soll, Jacob. The Reckoning: Financial Accountability and the Rise and Fall of Nations. Basic Books, 2014.

医学に関するメタファー論や翻訳論を読んでいる。

解剖学はヨーロッパの医学校における巨大な牽引力を持っていた。その一つが、医学生は解剖を本で読み図像を見るだけでなく、実際に手元で触れて、感触を持ち、それを憶えておかなければならないという心得である。ヴェサリウスの『人体構造論』は、これを積極的に利用した書物で、数多くの解剖学上のメタファーやアナロジーが用いられている・ metaphor and analogy help the students make the cognitive leap. この利用自体は、伝統を継続する中での新しい試みである。

ヴェザリウスが問題にして批判したのは、主にガレノスが用いたメタファーである。ガレノスは犬を解剖して肝臓を観察していたが、それを4つの部分に分けて、炉床、テーブル、ナイフ、戦闘士という名称をつけている。これが実際に四葉を数えているのか、それとも別のものを数えているのか、よく分からない。また、ヒトの肝臓は二葉であるが、どこを引用しているのか分からない。いずれにせよ、ガレノスにとって、肝臓は人体の中枢であり、そこがどのような構造なのかは非常に重要であった。他の中世やルネサンスの人々にとっても、アリストテレスの脳が重要であると議論と並んで、肝臓は非常に重要であった。

ヴェザリウスは、ガレノスの対象が実はイヌであったこともあり、比喩の利用を嘲笑する。しかし、ヴェザリウス自身もメタファーを使っていたからである。Vはパイプ、油、壁、柱、都市の通り、ワイン貯蔵所などの名称をつけている。細かい記述の前にこのような比喩的な表現が出てくる。

Social History of Medicine の最新号より

academic.oup.com

 

Social History of Medicine の最新号より。最初の論文は、20世紀初頭の郵便による感染症の広がり。封筒についているごく少量の糊は、何かのイメージがありますね。二番目が四日市の問題。英語ということもあるのか、中国の歴史学者が書いています。それから書評も数多く並んでいます。

トートロジカルとトートゴリカルとアレゴリー

www.oed.com

 

これは数日前の OED 。語句は tautegorical.  この説明自体は分かったけれども、tautological とどう対比するのかがよく分からなかった。

まずアレゴリー・アレゴリカルとの対比。アレゴリーは実際に描かれていることが隠された意味をあらわしており、それが道徳か政治の問題であることを指す。それに対して、トーテゴリカルは、他の意味ではなく、それ自身を指している状況である。用例によると、エジプトの風景を見て、それ自身を指し示し、それ自身として非常に美しい光景であるときにトーテゴリカルに美しいという。これをめぐるコールリッジやシェリングのことも読んで楽しかった。

問題は、この単語と似ているトートロジー、トートロジカルとどう違うのかという話である。they arrived one after the other in succession.  は、「次々と」という同じ概念を二回続けている。これをトートロジカルだという。しかし、なぜトーテゴリカルといわないのかと聞かれると、うまく説明できない。論理と美学とか、意味とシンボルとか、そのような世界の話なのだろうか。

Wellcome の展示

wellcomecollection.org

 

ロンドンの Wellcome Collection で面白い展示がいくつか。一つが20世紀の催眠術師のショーを内側から展示した Smoke and Mirrors. 私はカタログを買ったけど、とてもよくできている。冒頭のケースを用いたものが、実はジェンダー論の説明(笑) TVなどで観た記憶があるけれども、ビキニ姿の女性を横に寝かせて、真ん中をノコギリでぶった切って、それでも女性がニコニコ笑っているもの。これは男性の魔術師の側ではなく、実は女性のアシスタントの側が本気でパフォーマンスをしているショーであるとのこと。

他にも楽しい展示がたくさん。当事者も関与する精神医療の世界の紹介も面白そうですし、9月にはじまる世界の人間たちの展示が傑作のようですね。