病の物語

 医療社会学者・哲学者の「病の物語」の分析を読む。
 来週の週末に、ある学会で「物語ることをめぐる異種格闘技」と称して、英文学者たちを相手に「医学史と物語」というような内容のことを話すことになっている。色々な事情があって、分析というより紹介的な部分の話が多くなる。そのため、「ナラティヴと医学」の系統の研究書や論文をできるだけ沢山読んでいる。しばらく前に買って読んでいなかった(そういう本がなんと多いこと・・・)この本を読んでみた。
 医学の領域では、いま「ナラティヴ」が爆発的なブームである。大学のOPACをたたいてみたら、医学、介護、心理カウンセリングなどを中心に、「ナラティヴ」が6件、「ナラティブ」が18件、ほとんどが医療関係で2000年以降に出版されたものである。被分析者に物語をさせる精神分析の広がりを素地として、近年の患者の主体性を確立しようという流れの中で盛り上がっているのかなと想像している。医学史においても、この潮流と呼応して、また「言語論的展開」の影響で、歴史上の患者のナラティヴを分析した仕事がたくさんある。その中でもドゥーデンの『女の皮膚の下』は有名である。
 この本の基本的な枠組みは、パーソンズ流の sick role の中で定義されるモダンな患者と、ポストモダンな患者のあり方を対比して、ポストモダンな患者にふさわしいナラティヴのあり方を探りる、というものである。その枠組みの中で、ポストモダンの患者にとってのナラティヴの機能、特に病気を通じた自己と社会の関係を構築する機能を詳述している。受動的に医師に従い、一時的な病気の状態で「患者」という特別なステータスを受け入れ、そして健康を回復して通常の社会的な責任と権利を回復することを前提に作られているパーソンズのモデルは、専門職の優越を説くという意味でも、短期的に治癒される病気を想定しているという意味でも、病気と健康がクリアに分けられているという意味でも、モダン・メディシンを象徴している。一方で、本書が説くポストモダンの患者は、能動的に他者・特に同じ病気にかかっている他の患者とコミュニケートする。彼らは、一時的に病気になって健康に復帰するのではなく、慢性疾患にかかっていたり長期にわたって医療補助を必要としている。(著者はこの状態を、ソンタグに敷衍して 健康者の社会に住むヴィザを得ている、と説明している。ガンの大手術を経験した著者ならではの旨い表現だと思う。)こういった患者にふさわしい物語は、「健康を回復する」物語でも「病気に圧倒された混沌」の物語でもなく、病気を通じて以前とは違う別のアイデンティティを獲得する Quest と彼が名づけるタイプの物語であるという。
 著者が患者グループで話している経験が多いことも関係あるのか、哲学的・社会学的に高度な議論をしているにもかかわらず(少なくとも、私にはそう見えた)、とてもわかりやすく、すらすらと読めた。実際のフィールドワークから採取した患者の物語を、腰を据えて正面から分析した仕事ではないから、「イデアルタイプの話はわかったから、現実はどうなっているの?」という疑問は常につきまとっていたし、「モダンの特徴づけが、私が知っている19世紀の患者の物語と違う」と本を読んでいて30回くらい思ったが、この分野の入門書として非常に優れていると思う。現代の日本の医療社会学者・医療人類学者たちは、こういった理論的な仕事を杓子定規に信じ込まないで、批判的に受容して乗り越えてくれるといいんだけれども。
 細かい話だが、医学論文で患者の匿名性を保証するために、仮名を使い写真の取り方も工夫することについて、その論文の素材となった患者が、匿名化を施すことで自分の人格が奪われているように感じた、というエピソードは、目からうろこが落ちた。 個人情報保護の流れの中で見落としがちな点である。

文献はArthur W. Frank, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics (Chicago: University of Chicago Press, 1995). いまOPACをたたいたら、鈴木智之さんという方の訳で、『傷ついた物語の語り手』というタイトルでゆみる出版から翻訳が2002年に出ていました。