司法精神医学と自己の概念

 歴史上、精神障害を理由に刑の減免が訴えられるケースは多かった。そういった記述から、テクニカルな法律上の基準を研究することもできるが、話をもっと広げて、自己の概念を調べようという狙いも成立する。後者の狙いで書かれた18世紀のイギリスの刑事事件記録を分析した論文を読む。

 論文の狙いは面白い。読んでいる資料もいい。特に、証人として出廷した普通の人々がどんな記述をしたか、ということがわかるから、社会史・民衆史にとっての命綱である「普通の人々の声」をかなりの程度まで再構成できる。それをもとにして、「エリート」が持っていた自己の概念との一致とずれの双方を調べることもできる。一致という点では、当時の民衆が、感情的な動揺、病気、貧困などによって「いつもの自己ではなくなったから犯罪を犯した」という訴えを頻繁にしたのと同様に、当時の哲学者や文学者は、感覚刺激や感受性によって自己が構成される、あるいは、少なくとも、理性で構成される堅固な自己と並存していることを認めていた。ずれという点では、これは民衆とエリートのずれというより、むしろエリート内部のずれと言ったほうがいいが、感情や、あるいは貧困を理由にしての刑の減免を、当時の法律家たちは認めていなかった。法律上の規則あるいは判例から見えてくるのとは違う、より複雑でゆらぎを内包した自己像を、18世紀の司法の脈絡で発見することができるという議論である。

 しかしこの論文にはいくつか疑問もある。その一つは、自己概念が先か、ナラティヴが先か、という問題である。ナタリー・デイヴィスが16世紀のフランスの文脈で明らかにしたように、司法の現場では、まずは物語が語られ、その物語にあわせてキャラクターの性格設定がされ行動が記述される。「自己概念」という何かが先にあるのではなく、どの物語を選ぶかという行動が先にあるのではないだろうか。

文献は Rabin, Dana Y., “Searching for the Self in Eighteenth-Century English Criminal Trials, 1750-1800”, Eighteenth-Century Life, 27(2003), 85-106.