ヴィクトリア時代の病気の語り


 19世紀イギリスにおける<病気の語り>の研究書を読む。

 患者による病気の物語は、Illness narratives などと呼ばれて、何かのついでに研究するのではなくて、それ自体ひとつの研究対象となってきた。このジャンルを、Pathography と呼ぶ研究者もいるが、パソグラフィというのは別の意味があるので、しっくりこない。日本語では「闘病記」というミスリーディングな名称が、例えば Yahoo! カテゴリーなどでよく使われている。

 この種の言説を、ジャンルとして最初にまとまった形で研究したのは、私が知る限りではこのブログでも取り上げたアン・ホーキンズである。新領域を開拓したパイオニアの傑作である。今回読んだフローリーは、ホーキンズが大きな点で誤っていたことを疑問の余地なく指摘し、そしてホーキンズに代わる魅力的な方法論を示している。だからと言って、ホーキンズの仕事の価値は少しも減じられない。史実の点でも、方法論の点でも、重要な反論が可能な研究書というのは、それが優れていることの証である。一番苛立つのは、資料からの抜書き的な史実の羅列と、個人的・政治的な信念だけで構成されているような研究書だろう。

 フローリー(以下F)の著作が完全に反駁したホーキンズ(以下H)の主張は、「病気の語り」が20世紀の後半に急速に形成されたジャンルである、というものである。Hは、かつては病気の語りは伝記や自伝一般の中に吸収されていたと主張した。Fが示したのは、19世紀に既に無数の「病人」(invalid)の語りとして病気の語りが出版され、そのテキストたちはお互いに言及しあって一つのまとまりを形成していたことである。この新しいクロノロジーが含意している重要な点は二つある。一つは、病気の物語が20世紀の医学の進歩や慢性病の増加によって成立したジャンルであるという説明に大きな疑問符がついたこと。そして、特定の病気(「乳ガン闘病記」「膠原病闘病記」)の物語が成立するより前に、医学化されていない「病人一般」の物語が成立していたこと、そこから特定疾患の物語への分化という形で、疾病単位によって分類される物語群という構造に変化してきたことである。

 次に、HとFの方法論の違いである。Hの方法は、物語の形式論的な分析である。治療の探求・再生・抗議などといった、テーマとストーリーの流れをいくつかのパタンに分けるのが、Hの主たる議論である。一方Fは、この視角も利用するが、分析の中心はヴィクトリア時代の社会的な力が、病人の自己をどのように成型したかという問いを中心に据える。語り手と彼/彼女を取り囲む文化的な諸力の構造分析である。物語の中身に限定された分析から、文脈と内実の相互作用へと分析の視角が広がっている。

 この視角で、Fは福音主義やジェンダーといったヴィクトリア朝研究の「お約束」ともいえる主題についてエレガントでシャープな分析をしている。病気は神が与えた試練であり、救済への跳躍台であり、病気で仕事ができなくなることは特に男性の自己像とって大きな問題であった、という主題がさらに洗練されている。私が一番面白かったのはしかし、病人であることと時間性の問題の分析である。 Invalid というのは、病気が治りもしないし進行もしない停滞した時間に置かれている病人である。これは、発病から治療にいたる直線的な変化という医療のマスター・ナラティヴとなる時間性に合わない。(この医学の時間性の話はかなり粗い話だが、まあいい。)さらに、この定常的な病気・停滞した時間というのは、19世紀の改良と進化の物語の基礎にある「進歩」の時間性ともずれている。19世紀の病気の物語は、その時代に信奉されていた時間性とは異質な性格の時間の中で生きる登場人物の物語なのである。 

文献は Frawley, Maria H., Invalidism and Identity in Nineteenth-Century Britain (Chicago: University of Chicago Press, 2004)
画像はディケンズの Hard Times の挿絵より。