ルダンの悪魔・ポーランド編



 ルダンの悪魔憑きを素材にした小説を読む。文献はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』関口時正訳(東京:岩波文庫、1997)

 ルダンの悪魔憑きの事件を題材にとって、細部は史実や当時出版された書物に依拠しながら、しかし舞台を17世紀のフランスからポーランド(「ルーディン」)に移した小説である。修道院長の尼僧ヨアンナに憑いた強力な悪魔たち(全部で9匹いた)を祓うべく使わされた神父スーリンの内面の葛藤が物語の中心。この小説では、ヨアンナを愛するようになったスーリンは、彼女に憑いた悪魔を自らに転移させ、自らが悪魔憑きになることで彼女を救う。 

 スーリンを描いた部分は、小説として読んでも面白いし、色々なヒントがあった。一方でヨアンナは、単調なアテンション・シーカーに仕立てられていて、ちょっと失望した。それから、セッティングが少し田舎過ぎるような気がする。セルトーが強調しているように、小さな村で起きる魔女狩りと違って、悪魔憑きは都市の複雑な関係を下敷きにして、劇場的な見世物になっていく。この複雑性を犠牲にして、スーリンとヨアンナの二人が過ごした屋根裏部屋のインテンスなシーンをハイライトしているのだろうけど。

 ついでに言わせて貰うと(笑)、私は観ていないけどが、この作品が映画化されて高い評価を受けているとのこと。(カヴァレロヴィッチ監督『尼僧ヨアンナ』)スーリンとヨアンナの「性」の問題を、小説よりもさらに強調しているらしい。またフロイトか・・・ Lyndal Roper が言うように(Oedipus and the Devil)、性は魔女たちの妄想の一つのアイテムに過ぎないのだけれども。 

 セルトーは、悪魔に憑かれた空間の「におい」を美しい文章でつづっている。「においは、あなたの眼前にあるものの表面を、あなたがその中に捉えられた空間へと変換する。あなたが呼吸する空気は、あなたが導きいれられた世界の目印になるのだ。それが病気の世界であれ、恩寵の世界であれ、呪文の世界であれ。そのにおいをかぐとき、あなたはすでにその世界の中にいる。より正確に言えば、あなたはその世界に属しているのだ。」悪魔憑きの妄想をめぐって、セクシュアリティの力学が働いているのは確かである。でも、それは、「におい」や「味」などを含めた身体性の感覚一つの要素に過ぎないというのが最近の研究者の合意だし、私もそう思う。 

画像は、フューズリーと現代の「三人の魔女」の対比。 ウェッブで見たら、現代の魔女のエロティサイゼーションというのはすごいんですね。