パンデミーと帝国主義


 18世紀末から20世紀初頭にかけてのチュニジアにおいて、流行病の歴史と植民地化との関係を論じた書物を読む。文献はGallagher, Nancy Edward, Medicine and Power in Tunisia 1780-1900 (Cambridge: Cambridge University Press, 1983). 

 西ヨーロッパ最後のペストは1720年のマルセイユでの流行だが、東欧やアフリカ・トルコでは、19世紀に入ってもしばしばペストの被害を出していた。チュニジアにおいても、1784年から85年にかけて、そして1819年から20年にかけて、ペストの大きな流行が二回あった。次いで、1830年代から相次ぐコレラのパンデミーへの対処に追われることになる。18世紀の繁栄から、1881年にフランスの保護国とされるまでのチュニジアの歴史を、それが経験した一連の流行病とそれへの対応を通じてみてみようという書物である。

 地中海交易の要の一つであるチュニスを持ち、ヨーロッパ列強の思惑が交錯した地域だから、検疫をめぐる外交と内政干渉が話題の一つの中心になる。流行病対策として「検疫」や「防疫線」をチュニジアの太守に勧めたのは、もとはといえばヨーロッパの領事たちだった。西洋化を標榜したある太守は検疫の思想に過剰適応して、コレラの流行のときには人と会わないで別宅に引籠もり、臣下の眉を顰めさせていた。一方で、検疫の思想を「イスラムの伝統に合わない」と考えて、コレラの最中に積極的に公衆と交流した太守もいたという。

 チュニジアを流行病から守り、同時に通商の反映も保障するために、1833年に在チュニスの外国領事館のスタッフたちで構成する衛生委員会が発足し、太守に対して衛生政策についての助言をする役割を担う。この委員会では、コレラは伝染しないと言い張るイギリス領事という見慣れた情景(笑)が展開される。植民地化・保護領化に先立って、ヨーロッパ流の検疫や流行病対策が行われていた。臨床医学ではなくて公衆衛生だということがポイントである。このあたり、解剖学や薬学など、基礎医学と臨床に目が行きがちな日本の蘭学研究が見落としがちなところかもしれない。長崎海軍伝習所のポンペが1858年の安政のコレラ流行で、長崎で獅子奮迅の大活躍したのは偶然のめぐりあわせ以上の意味があるのかも。

 画像は、若い女性の「コレラ罹患以前・以後」