Lazaretto という単語の訳し方
"lazaretto" という単語があり、もともとはイタリア語であるが、英語化している。 lazaret というスペルもある。この単語の訳し方が難しく、中世から近世のヨーロッパの医学史における二つの重要な疾患であるハンセン病とペストの流行と対策がからんでいる。
単語を眺めると、Lazarus(ラザロ)という名前とのつながりがあることは誰でも想像できる。新約聖書ルカによる福音書の16章19-31節にある、キリストによるたとえ話の一つである。金持ちがいて、その門前に、体中ができものでおおわれている乞食のラザロがいたということから始まり、金持ちが死んで地獄で苦しんでいるときに、天国でアブラハムの胸のうちに抱かれているラザロをみることが語られる。体中ができものでおおわれているから、ラザロはハンセン病の患者の一つの象徴となる。英語の lazar にも14世紀中葉以来、ハンセン病の患者という意味がある。 ここまでは何の問題もなし。
次が lazaretto という単語。ここで話が二つに分かれる。この単語はもちろんイタリア語である。いろいろな辞書を信じるなら、このイタリア語が最初に使われたのは15世紀のヴェニスの海上にある島の名称としてである。現在では Lazaretto Vecchio (Lazzaretto のスペルもあり)という名称のこの島は、ヴェニスでペストが流行した時に、患者を隔離収容する機能を持っていた。 Lazarus という語はハンセン病と深い関係があり、一方でLazaretto はペストとの深い関係の中で出てきた単語である。
ヴェニスでペストを隔離した島が、もともとハンセン病患者を隔離して送り込んでいた島だとしたら、話は簡単である。もともとはハンセン病を送り込んだから Lazaretto といった。そこにペスト患者を送り込むことにして、ペストを隔離するものとしての Lazaretto が有名になったということなら、同一の場所・施設においてハンセン病―ペストという推移が起きたということで理解しやすいし、隔離とか監禁とか他者化とかのモデルで説明できると喜ぶ歴史学者もいるだろう。
私はイタリア語ができないから、このあたりの事情を深く細かく調べられないのが残念だけれども、たぶん、このわかりやすい説は間違っていると思う。 ヴェニスの島を Lazaretto と呼ぶことになった起源としては、そこに Saint Mary of Nazareth という教会があり、その Narareth から Nazaretusと呼ばれ、それが訛って Lazaretus になったという説が紹介されている。 この説のソースは、その島でペストの死体が多数発見されたことを報じたNational Geographic だから、かなりの程度は信頼できる。 その島が「ラザレット」と呼ばれるようになるのに、「ラザロ」が関係していない可能性があるということである。
http://news.nationalgeographic.com/news/2007/08/070829-venice-plague.html
18世紀後半の監獄などの改革者のジョン・ハワードに「ヨーロッパの主要なラザレットについての報告」という調査記があり、ここでハワードが訪問している「ラザレット」はもちろん検疫病院と訳すべきものである。ここにハンセン病患者がいた可能性はもちろんゼロではないが、そもそも中世のハンセン病収容所ではないし、ペストの流行語に検疫と隔離のために作られた施設であり、18世紀後半にはハンセン病はヨーロッパではごくまれな疾患になっていた。Lazaretto という語から Lazarus を思い出すのはそこそこ賢いが、軽々しく「ライ病院」と訳してはいけない。 大きな英語辞典で Lazaretto を引くと、たしかに語義には Lazarus のハンセン病が言及されているが、用例をみると、ヴェニスのペスト隔離収容病院か検疫病院のことばかりである。 一応、いまのところは、Lazarus はハンセン病、Lazaretto はペストなどの急性感染症と憶えておくと訳し間違いが少ないと思う。