老水夫行

 コールリッジ「老水夫行」The Rime of the Ancient Mariner を読む。

 アメリカの「老い」の文化史の研究書を読んでいるが、その中で「老水夫行」に触れていたので、20年ぶりくらいで読み返してみた。対訳付の岩波文庫版(上島健吉訳)のほか、色々な版のテキストや朗読がウェッブ上にふんだんにある。日本の古典の朗読サイトってないかしら? 

 話の筋は有名である。ある若者が婚礼の宴に出席しようとしていると、老いた水夫に呼び止められて、彼の経験談を聴くという設定。南極に向かう船の乗組員であった語り手は、航海の途中でアホウドリを矢で射殺し、その呪いのために船では恐ろしいことが起きる。幽霊船に乗って「鮮紅の唇に不適な眼差しに波打つ金髪、そしてらい病やみのような白い肌」を持つ「死」の女がやってきて、二百人の乗組員を皆殺しにする。死体は腐敗もしないまま冷たい汗を流し、あるいは死んだまま起き上がって船を操縦する。海には無数の海蛇が体をくねらせている。こういった死よりも恐ろしい地獄の悪夢の中を、くだんの水夫はただ一人生き残って帰ってくる、という話である。

 この作品のひとつのポイントは、全体が「老人の記憶の物語」として語られていることである。当時、老人の位置づけは揺らいでいた。産業革命が人々の生活を一変させ、アメリカで家父長のイデオロギーが弱体化し、ロマン派の青年詩人たちは既存の権威に叛乱していた時代である。その中で新しい老人像が現れようとしていた。この作品では、どこにでもいる老人の記憶の中に、異様な世界が潜んでいることが示唆されている。婚礼の宴で供される娯楽とは程遠い、凄惨で怪異なその世界の物語を聴くことは、聴き手の人格を形成する一助になっている。

 この作品の基本構造から、老人の話に耳を傾けましょうという安直な教訓を引き出すことはできなくはない。先日の低人さんのコメントに登場したヘルパーさんは「さあ、過去ばかり向いていないで、おじいちゃん明るく前向きに生きましょう!」というそうだけど、「さあ、おじいちゃんが好きな幽霊船と死なない死体の話を今日もしてね!」ということになったら、老人ホームの雰囲気は一変するだろう。 ・・・功罪あるだろうけど、どちらかというと活気が出るじゃないかと思うのだけれども(笑)。