日本文化の空間論

 必要があって日本の空間の現象学的文化論のようなものを読む。文献は、オギュスタン・ベルク『空間の日本文化』宮原信訳(東京:ちくま学芸文庫、1994)

 フランス人による日本文化研究書である本書は、理論的に洗練されていると同時に、読んで楽しい本でもある。まず何よりも基本的な理論装置が優れている。個人である主体が、事象や他人や組織と向き合うときの関係として空間を捉えているから、事物をさすときや敬語などを使うときの日本語の文法、家のつくり、街のつくり、土地利用の形式、共同体や国家と個人との関係などを、どれも空間的な行為の一種として捉える視座がある。個人ではなく状態・文脈の優先という大きな結論自体は、本書でもしばしば言及される中根千枝の<場の理論>とあまり違うわけではないけれども、それらが空間論や地理学の中で分析されている広がりを感じる。

 本書から引用を二つ

「日本式空間の中で最も大きい効果は、人間に不規則な凹凸を、ざらざらを、要するに今いる場所で存在することを許すとっかかりを各瞬間にそれぞれの場所で生きる可能性を提供する点にある。果てしなく広い東京の、どこか小さな通りを散策する時に感じられる奇妙な満足感の原因は他にはない。」

「日本のミチは目的よりもプロセス(経過)をたいせつにする面がある。日本の街路は目的語を持たない自動詞のようなもので、人々はそこにいるのが楽しくて明確な目的もなく歩いている。そのための舞台装置も揃っている。さまざまな看板、小売店、ショーウィンドウに料理の実物を飾ったレストラン。つまりここには無数の活動があって、そのうちもっとも重要度が低いのが目的地への移動なのだ。」

 ここで論じられていることは、実はどちらも日本に特徴的ではない。前者については、私はイギリス人が、カーテンが下げられた窓辺に椅子と小テーブルを置いて、そこでしばしの時間を過ごすように誘う手練手管にいつも舌を巻いているし、後者の都市を散策する喜びは、ベンヤミン以降の都市文化研究の一つの焦点である。でも、この筆者の書き方は、なんとなく日本的な「雰囲気」としかいえないものを捉えようとしていて、もしかしたら成功しているかもしれない。