必要があって、変質理論と病理・臨床といった「ハードな」医療科学のかかわりについて論じた論文を読む。Lawrence, Christopher, “Degeneration under the Microscope at the fin de siecle”, Annals of Science, 66(2009), 455-471.扱っている素材は主としてイギリスの神経学者という限定されたものであるが、分析する概念装置は素晴らしく、変質 (degeneration)や優生学を論じるときの必読文献になるだろう。はじめて蒙を啓かれたという感じがする。
変質理論とは、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて流行した理論で、社会や国家が進化の過程を逆に辿るように退行して、神経症や精神病・精神薄弱などを経て、最終的には不妊になっていくという悲観的なヴィジョンであった。文明の進展とともに発生した、都市のスラムに居住するルンペン、アルコール中毒、犯罪者、精神病者などが満ち溢れる社会への向かっているというヴィジョンは、優生学を生み出した一つの大きな要因であった。この変質理論の社会・文化的な側面、特に、国民・民族や人種が変質へと向かうという思想は、この30年の医学史でもっともヘビーに研究された分野である。
一方で、まだわかっていないのが、基礎医学と臨床医学は、変質理論にどのようにかかわったのかという問いである。国民と社会が退行し病理化していくという言説に、ハードな医学はどのようにかかわったのか。19世紀フランスの変質理論を研究したロバート・ナイは、変質理論を構成したのは、医学というよりむしろ医学ジャーナリズムであるとまで主張していたが、それは事実だろうか。そういった問題について、的確な説明を試みている。
Degeneration という言葉は、もちろん1850年代にモレルが有名にした。しかし、それとほぼ同じころ、イギリスの神経医である Augustus Volney Waller が、切断した神経の組織が崩れてくる現象を、degeneration と呼んだ。この現象は、ほかのさまざまな用語で統一されないまま言及されていたが、病理的な組織変化の描写として、1900年ごろには degeneration という語が受け入れられた。この病理現象としての神経の degeneration を、臨床に結びつける仕組みも作られていた。それは、てんかん、狂気などは、遺伝性であり、神経の「変質」を原因として持っているという正統的な考えであった。この特徴づけを通じて、病理と臨床をつなげ、さらにはより広い社会的な理論へと使われる概念としての「変質」が作られた。また、病理的な変化を臨床において検証するための生理学的な概念や診断技術(電気に対してどのように反応するか)などが発達していた。これらの病気は、しばしば社会的「変質」の主たる原因とされていた病気であったので、どの医者もその道を進んだわけではないが、病理から社会理論への道は開かれていたのである。さらに、神経の変質であるにもかかわらず、その原因のうちでもっとも重要なものは、血液における変化であり、もっとも強い毒はアルコールであり梅毒であった。血液という、家族と国家についての直截なイメージを担う体液と、基本は神経という固体の現象である変質をつなぐことができ、アルコールや梅毒という外からの「毒」が神経を冒して変質をもたらすという装置が可能になった。
19-20世紀の変質理論においては、基礎と病理と臨床がつなげられ、遺伝だけではなく、アルコールや病原体などの社会に存在する「毒」が「血」に入るというヴィジョンを持って社会現象に適用できる医学理論になることができた。偉い学者はもちろんのこと、臨床医も、自分が観察できる現象を変質のレンズで見る概念装置ができた。これは、社会的な広がり―医療の基礎を持った広がり―に、大きな影響を与えたのだろう。