「内村祐之先生生誕100周年を記念して」

風祭元ほか「内村祐之先生生誕100周年を記念して」『臨床精神医学』26(1997), no.12, 1655-1676.
内村祐之は1936年から58年にかけて東大精神科の教授であった。1997年が内村生誕100周年であるという理由で、内村の弟子筋にあたる精神医学者たちが内村の思い出を語るという趣向で行われた。内村自身が1980年に没しており、1997年という年代は、幾らかの時間的な距離感が生じ始める時間であった。重要だが、日本の子弟関係においては普通は言われない重要なことが語られるチャンスだった。特に、出席者の中で最年長であり、また内村を最もよく知る人物で、60年代の精神医学の改革運動の中で東大教授を退職させられた臺(うてな)弘が自由な意見をきわめて雄弁に語り始めたということもあって、貴重な資料である。

臺が内村への異和感をあちこちではっきり表明している部分が面白い。いろいろな表現の仕方ができる現象だと思うが、それぞれにとって精神医学の使命感のありかたの違いである。内村はあくまで知的な研究として精神医学に取り組んでいた部分があった。彼の家庭、ミュンヘンでの経験、東大教授としての経歴など、さまざまな要素ゆえに、内村は精神医学を理論的な営みとして捉えていた。一方で、臺はもっと「熱い男」であった。彼にとって精神医学は臨床であり病院であり社会であり、内村にはそういう部分が欠如していることに不満を持ち続けていた。座談会の終盤に吐いた「内村先生は、あれだけの方でありながら、社会的な関心が薄いんです」という台詞が、臺と内村の違いを象徴している。イムの調査をしても、アイヌの人々がどれだけ日本人に虐げられたのか、一言も書かない。疫学調査でも、興味があるのは遺伝だけで社会的な部分には関心がない。分裂病については悲観的な印象をもっていたし、精神衛生会の仕事もすぐにやめてしまう・・・このような臺の内村に対する波状攻撃に呼応したのか、もう一人の出席者が「性格が傍観的である」ということを言いはじめ、東大紛争においても内村は傍観しているだけであったという。まさに臺がいる場で、その話を出しますか(笑)

これは、内村の個人的な家庭の問題、優生学とナチスを目の当たりにしたショック、そして日本における劇的な体制変化の問題など、さまざまな要因がからんでくる、複雑な問題だと思う。