イムの観察・理論の国際化の二つの過程

イムについての学説が、北海道や樺太のフィールドと、東京(メトロポリスI)・ドイツ(メトロポリス)II の間を流通した経路を少し整理した。重要なのは、榊保三郎の系列と、内村祐之の系列である。

榊保三郎は、のちに九州帝国大学の精神科の教授となった人物であるが、アイヌの部落でフィールドワークを行い、1901年にアイヌのイムについての論文を日本語で書き、その内容を1903年にドイツ語で発表した。このドイツ語論文は東大助教授として留学していた時期にNeurologieに発表され、これがヘルマン・オッペンハイムの教科書における記述のもとになった。そこではイムは強迫神経症の一つとして扱われていた。これが、フィールドから東京(メトロポリスI)、ドイツ(メトロポリスII)への最初の系路である。

しかし、ドイツにおいて、新しい動きが現れた。主役の一人は間違いなくクレペリンである。クレペリンは遅くとも1915年の教科書第八版においては、イムをヒステリーの一種であると考えて、アメリカ先住民のジャンピングやマレーのラターと同じ範疇に入れた。この転換の理由はよく分からない。クレペリン自身がラターを観察したことと関係があるのかもしれない。ちなみに、クレペリンは、おそらくイムやラターを観察して日本や東南アジアを廻る、ユーラシアを一周する文化精神医学の壮大な研究旅行を企画するが、第一次世界大戦でこの研究計画は立ち消えとなった。

もう一人の主役は、クレッチマーである。1923年にはクレッチマーの『ヒステリー論』が出版され、1930年には『医学的心理学』が出版された。ドイツに留学していた内村祐之はクレペリン―クレッチマーの影響のもと、北海道帝国大学の教授となってから1930年代にフィールドで調査を行い、その結果を1938年に日本語の論文とした。クレッチマーにならって、イムをヒステリーの原型と考えた論文である。この内容を、内村は1956年にドイツ語で発表し、その内容は1958年のクレッチマーの『ヒステリー論』第6版に採用された。内村の系列においては、クレペリン・クレッチマーから内村のフィールドワークへ、その結果がさらにクレッチマーに還元されるというサーキットが起きていること、そして、メトロポリスIIにおいて、ヒステリーをめぐる議論が進展していたこと、おそらく榊の時期とは違った議論になっていたことが重要である。