帝政期ロシアの自殺

必要があって、帝政期ロシアの自殺の歴史の研究書を読む。文献は、Morrissey, Susan K., Suicide and the Body Politic in Imperial Russia (Cambridge: Cambridge University Press, 2006). 野心的な概念装置と重厚な実証のクオリティが高い研究書をそろえた、ケンブリッジの文化・社会史シリーズの中の一冊。

自殺の研究は急速に充実している。この背景には、現在の自殺をめぐる知的に錯綜した状況がある。一方で自殺を病理化して、そこに含まれる倫理的な選択をトリヴィアルにする流れがあり、もう一方には、生命の質を問題にして、死ぬ権利を認める流れがある。歴史学の大きな理論としては、近代化・世俗化・医学化というキーワードで理解され、より新しい理論としては、フーコーの生政治の問題とアガンベンの主権の問題などが注入されている。生命という問題が、神的な権威とそれを引き取った国家の領域に位置されるのではなく、個人の自立と社会との関係の中に移行されて理解されるという傾向がある。しかし、この自律的な自己という概念は、同時期のほかの人格の概念と並置されて、それらによって攻撃され断片化された。たとえば、生物学や遺伝によって決定される生理学的な人間観や、非合理な欲望と無意識に駆動される心理的な人間観や、資本主義によって阻害されているマルクス主義的な人間観などが、同時に帝政末期のロシアでは進行していた。そのため、自殺という現象は、さまざまな政治的・文化的・社会的な権威が確立され、争われる場となる。その争いに参加するのは、聖職者と医者というだけではなく、主権であり、公衆であり、国民であり、個人であるということになる。

1905年のロシア第一革命のあと、ロシアの自殺は新しい時代に入った。一つには、暴政に反対する抗議行動としての自殺という、政治的な言語として使われる自殺が広く流通するようになったこと。もう一つ、より重要なことは、革命の言語の生命力だけでなく、むしろその生命力が劣化し衰退し解体されていく過程を表すものとしての自殺という解釈も広まっていた。自殺は、現実に能動的に働きかける方法として認識され、生命の意味と価値を再定立する手段として認められると同時に、人生の空洞と無意味さを表現する手段としても用いられるようになった。特に、1890年代にはまだ自殺率が低かったロシアにおいて、1900年代になると自殺率が上昇するようになったという言説が現れた。ティーンエイジャーの生徒が、国家の学校の教師に抗議して自殺する例が繰り返し新聞や雑誌で報道され、人々は、読む前にストーリーがわかるようになる。

自殺研究で確立していた「世俗化」「医学化」といった概念装置に、革命、自己、国民などの新しい概念の息吹を吹き込んだ傑作だと思う。特に、自殺のエピデミックという現象に直面したときの精神科医を含めた人々の混乱と対応を描いた箇所は、日本でも1930年代から離陸した精神科の医者による自殺研究が、退廃的な自殺と直面しなければならなかった事情を考えるときにとても参考になる。