明治期のコレラ流行時の民衆史の研究書を読む。文献は、杉山弘「覚書・文明開化期の疫病(はやりやまい)と民衆意識-明治十年代のコレラ祭とコレラ騒動」『町田市立自由民権資料館』2(1988), 19-50.
明治12年には全国にコレラが流行して、患者が16万人、死者が10万人以上出た。この流行時に、明治政府の公衆衛生政策、特に避病院への隔離収容に反対する集団的な抗議行動が各地で起きた。この論文はコレラの疫病神を送る祭りを併せて、全国で50件もの類似の事例があったまとめている。民衆の間には、消毒用の石炭酸をまく警察官が毒薬を井戸に放り込んでいるだとか、病院に行くと殺されて生き胆を抜かれるなどの流言飛語がとびかい、権力や上層農民に対して暴力を伴った抗議行動に出た例もあった。これらの事例は、コレラに対する「民衆」の対応と、それが明治政府が推し進めていた近代的な公衆衛生と対立していたことを示す、貴重な事例である。
この問題については多くの優れた研究があるが、この論文は私がずっと気になっていた問題を正面から取り上げようとしていた。それは、なぜ政府のコレラ対策に対する反対行動は明治12年に集中し、それ以降に繰り返されたコレラの大流行においては、似たような行動が見られないのか?ということである。筆者はコレラ一揆の中には、他の村のコレラ死者が村を通ることへの反対もあり、これは民衆がコレラ死者を忌避していたことを示し、コレラ患者を隔離するという政府の政策に同化するものであるという指摘もしている。明治政府や社会の上層部の「上からの」政策を、民衆の世界観と対立的に考えるのではなくて、近代医学に基づく公衆衛生政策と、民衆の世界に根付いた疫病観は「意外に似ていた」というようなことを最近考えているので、大きなヒントになった。