コレラ踊り

江戸期から明治初期を中心に、コレラが流行したときに、村人があつまって踊りを踊るなどの行為をして、明治期には政府官憲に禁じられて対立し、「コレラ騒動」となった。これは非常に有名な一連の事件で、これをどのように解釈するかということは日本の公衆衛生と流行病行動の近代化のカギになっている。いろいろな意見があるが、その踊りがどのようなもので、どういう意味を持っているのか調べられないかと思って、江戸時代の百科事典と言われている『嬉遊笑覧』を読んだ。踊りについては、巻3、pp.71-138. にある. でも、急に踊りについての原資料を読んでも読みとけるわけがなかった。でも、面白い記事をいくつかメモ。

「にはか」は、もともとは京都の島原の中堂寺村に作られた、堺の住吉神社をまつる社から出る「ねりもの」(歌舞音曲をともなう行列)であった。盛大に行われたという。『孔雀楼筆記』には「小さな家を持っているものも公然とこれをなした。裸または肌脱ぎで、頭や顔、手足全身に色を塗って白昼に大道を歩き、戯語、奇妙な身のこなしをする。冷静に見れば、そのまま乞食である」119-20.

「かぶきもの」というのは、目立つ奇矯な格好をして、非常識な行為をしてよろこんでいた若者たちを言うが、「世に諂らひ媚る者をかぶき者といひ、かぶき廻るなどいへり」とあったのが面白かった。自分たちは特別だと思って行うことが流行し、みんなと同じになるという大衆社会の矛盾と構造がよくあらわされている。