明治の厚生官僚の憂鬱

必要があって、『中浜東一郎日記』を読む。文献は、中浜東一郎『中浜東一郎日記』中浜明編 全5巻(東京:冨山房、1992-95)

ジョン万次郎の長男である中浜東一郎は安政4年(1857)に江戸に生まれ、明治14年(1881)に東大医学部を卒業し、森鴎外らとともにドイツに留学した。明治22年から内務省衛生局に勤務し、東京衛生試験所の所長に任じられる。天然痘のワクチンの量産化に取り組むなど首都東京の防疫に活躍しただけでなく、コレラや赤痢などの伝染病が流行するたびに流行地に派遣されて、流行状況を調査する任に当たっていた。1890年の長崎のコレラ流行について中浜が書いた報告書は、細菌学的なコレラ菌の同定に基づいて流行の様子を知ることができるものとしては、日本で最初の論文だと思う。(これは、間違っているかもしれないから、それよりも早い論文があれば教えて欲しいのだけれども。)衛生官として活躍する中浜の日記は、簡潔だけれども事態の核心をついた記述が多く、重要なヒントがちりばめられている。

今日はそんなことよりも、官僚としての中浜について、無駄話をする。中浜は東大卒でドイツ留学もしたが、出世街道のトップを走っていたわけではなかった。福島医専卒の後藤新平は衛生局の局長になり、北里柴三郎内務省に入り、長与-福澤の後援で造られた伝染病研究所の所長に収まって日本の細菌学的な公衆衛生の指導者になっていた。彼が北里に対して含むところがあるのは、まあ理解できる。しかし、この日記を読むと、ちょっと行き過ぎというか、書き過ぎである(笑)。

たとえば、北里がある青山に新築した病院(って、どこだろう?白金の病院のことだろうか?)を揶揄して、その賄いは福澤の収入、席料は長与の収入、患者より得る薬料は北里の懐に入っているという中傷的なうわさ話を、友人たちと大いに盛り上がって愚痴っている姿は、あまり格好良くない。(ちなみにこの噂話のもとは森鴎外である。)日清戦争の帰還兵によるコレラ流行で、中浜は神戸を視察したあと東京に帰りたかったのだけれども、長与に大阪に行くようにさらに命令されて、愚痴を日記に炸裂させている。北里は内務省に好きなときに半日行っているだけで月給が200円、自分は日本中を飛び回って、神戸にコレラがあればそこに行き、中国地方に赤痢があれば山深い村にいき、岐阜で地震があれば出張先の旅館で人が食べ残したかまぼこを出され、八丈島にわたっては象皮病を調べ(これはまだ当時は行っていないけれども・・・)、そういう生活をしていて月給が120円。それも、出張中の費用を何でも必要経費で落とせるわけではないから、どうしても足が出て、自腹を切らなければならないこともたびたびである。馬鹿馬鹿しい、やってられるか。いつも俺を冷遇する長与の奴に辞表を叩きつけてやる・・・

まあ、ドクトル中浜の不満も分からないでもない。1890年代、確かに過酷な出張が多すぎた。行く先々で昼は無能な地方の衛生関係者を無駄に説得し、夜は接待と懇親会に明け暮れるうち、同級生はどんどん優れた論文を書いていく焦りがにじみ出ている日記のエントリーが目立つ。でも、こういう事情で本当に辞めてしまったのはちょっと驚いた。中浜の長崎のコレラ流行調査は、エレガントで緻密な論文で、馬力と予算にまかせた北里一派の流行記事よりも私は好きなんだけど(笑)、そうか、彼の論文を読めなくなった背景には、こんなくだらない事情があったんだ。