医学中央雑誌の全画面デジタル・アーカイヴ

2011年10月18日に、国会図書館で、『医学中央雑誌』の1903年の創刊号から1983年までの全画面デジタル・アーカイヴが公開された。80年間の刊行物の全紙面のページを見開きで撮影し、巻・号ごとにまとめたものである。このデジタル・アーカイヴへの収録が終了する1983年以降の『医学中央雑誌』の内容は、日本の医学文献のウェブ上の最大のデータベース「医中誌 Web」に連結するので、両者をあわせると、日本の医学についての網羅的な文献情報を、1903年から現在まで連続してウェブ上で調べられることになった。現在では83年を境にデジタル・アーカイヴとウェブ上のデータベースが分かれているが、数年後には、「医中誌 Web」からデジタル・アーカイヴへのリンクも張られる予定であると聞いている。

『医学中央雑誌』のデジタル・アーカイヴが公開されたことは非常に大きな意味をいくつか持っている。もっとも卑近なことから言えば、このアーカイヴは、医学史、医学社会学、医療人類学、医療倫理、STSの研究者の多くが待望していたものである。これらの医療人文学・医療社会科学の研究者たちにとって、必ずしも医学図書館が身近にあるわけではなく、『医学中央雑誌』のバックナンバーまでの距離は遠い。また、大学の医学図書館が『医学中央雑誌』を創刊号から一号も欠かさず持っているのはむしろ例外的である。今回のアーカイヴ公開により、20世紀の日本の医学の活動をもっとも網羅的に集めた文献情報誌が、世界中どこからでも自分のPCの画面に現れるという、もっともアクセスしやすい形で利用できることになった。これは日本の医療人文学・医療社会科学の研究者にとって革命的な前進である。自分が調べたい問題についてどんな文献があるのか知る手段である『医学中央雑誌』にアクセスしにくいという、研究の基本的な情報収集の障害で苦しんでいたが、デジタル・アーカイヴ化によってこの障害が一気に取り除かれ、研究は飛躍的に広がり、その水準は急速に上昇するに違いない。

それよりもずっと重要なことは、『医学中央雑誌』のデジタル・アーカイヴ化が、医学の現在と過去が連続していることをくっきりと示す一つのコーパスをネット上に立ち上げたことであろう。『医学中央雑誌』は、それぞれの時点において必要な「最新の情報」を求めるための機能をはたしてきた。文献抄録誌としての冊子体としての『医学中央雑誌』は1903年から、CD-ROM版は1992年から、「医中誌 Web」は2000年から用いられてきた。そのような「最新の情報」をもとめる現在の私たちは、以前の情報よりも新しいもの、以前とは違ったものを志向して、過去と歴史から一歩前に進む運動をする。それこそが医学の進歩であり、それが重要であることは言うまでもないだろう。私たちが過去よりもよい医学を志向する中で忘れがちなことは、過去も、同じように、よりよい医学を志向し、最新の情報を求め続けてきたということである。過去の医師たちも、彼らにとっての最新の情報を求め続けてきたという意味で、現在の医師たちと変わらないというあたり前の事実が存在する。その事実を、くっきりとした形と100年以上の蓄積をもって示してくれるのが『医学中央雑誌』であり、今回のデジタル・アーカイヴ化は、その蓄積を、もっともアクセスしやすい形式で示すことになった。現在における最新の医学研究と継続するものとして、「過去における最新の医学研究」を眺めることができるようになったのである。現在の医療は一世紀にわたる文化遺産との連続の中で営まれていること、そして過去の医療は現在の医療につながる連続体の中でとらえるべきであること。この有機的な視点を、現在の医療者と、医療の歴史・文化・社会の研究者の双方にもたらしたのである。

 『医学中央雑誌』は、1903年に、広島県出身で当時東京で開業していた医師、尼子四郎が個人事業として創刊した医学文献抄録誌である。事業は1928年に四郎の長男で医師の尼子富士郎が代表としてひきついだ。1972年の尼子富士郎の没後は、村上元孝(在任 1973-1989)、篠原恒樹(1989-2010)、脊山洋右(2010-)らの理事に引き継がれてきた。尼子四郎については、夏目漱石の神経衰弱を診療し、「甘木先生」として『吾輩は猫である』に登場すること、富士郎については、杉並区高井戸の老人医療施設「浴風会」に拠って老年医学の開拓者であったことを言い添えておく。尼子四郎が創刊した時には一年間で1,886点の論文を収録していたが、富士郎時代の1933年には20,357点と10倍以上の論文を収録し、1983年には170,473点と、創刊時の100倍近い数の論文を収録する大部なものになった。