マゾヒズムの歴史


 未読山の中からマゾヒズムのカルスタを読む。文献はStewart, Suzanne R., Sublime Surrender: Male Masochism at the fin-de-siècle (Ithaca, New York: Cornell University Press, 1998).

 マゾヒズムという概念は、現在の日本では「SかMか」というように性格類型として使われているようだけれども、もとはと言えば精神障害の疾病概念で、クラフト=エビングが1886年に作り出したものである。グラーツ大学の歴史学教授(笑)から文筆家になったザッヘル=マゾッホ(1836-95)の、『毛皮を着たビーナス』などの自伝的な小説に拠っていることは有名である。

 ドゥルーズの「マゾヒズムとは<契約すること>のパロディである」という洞察以来、マゾヒズムの研究は一つの学問領域になっている。この書物も、男性マゾヒズムという、現実と言説の複合体が、なぜこの時代に生まれたのかという問いに答えようとしている書物である。別の言葉で言うと、支配し隷属させることが男性らしさの特徴のように言われているヨーロッパ社会で、なぜ19世紀の後半に、支配されるというマゾヒスティックな行為で快感を得ると信じる男性が顕著に現れて、そういう男性は医学の対象であると医者たちが考え、その概念が社会と文化に定着したのか、という問題である。そもそも出発点となる問題設定が正しいのか心もとないけれども(本当に19世紀なの?18世紀ロンドンの鞭打クラブは?)、その設定を受け入れると、いくつも面白い洞察があった。

同じシリーズから出ているもう一冊のマゾヒズム研究書(注1)が、帝国主義を重んじているのに対し、この書物は資本主義と工業化社会を重んじている。<19世紀の後半に、ヨーロッパの男性は、既に傷つけられて、切り裂かれたものとして自己を理解するようになった。満たされることが永遠にない欲望のために、現代文明に服従を強いられ隷属させられた自己として。即ちマゾヒズムは男性の主体性の危機であり、同時にその危機を積極的な基準にして、男性性の本質にその危機を取り込んで理解することである。> 分りづらい言い回しで表現されているけれども、自らの欲望を充足させるために産み出したはずの<文明>が肥大化し、それに支配されるようになった状況とパラレルな事態として、マゾヒズムが理解されている。意外と当たっているかもしれない気がする。

面白かったのが、冒頭のハインリッヒ・ハイネのエピソード。1848年にハイネはパリで病の床にあったが、そこから這うようにしてルーブルに行き、ミロのビーナスの前で衰弱した体を横たえた。ハイネによれば、長いこと彼はビーナスの前でさめざめと泣いていたので、大理石ですら彼に哀れみの心を催したのではないかと思われるほどだった。そしてハイネには、ビーナスが彼を哀れんで見ているように思え、同時に、憂いをたたえたまなざしで「私にはあなたを助けられないのよ」と言っているかのようだったという。なぜ助けられないのか、って? それは「私には腕がないから」に決まっている(笑)。これは、日本人が聞くと落語のオチのような気がするけれども、ハイネは大真面目だったらしい(笑)。 

画像は、植民地主義とマゾヒズムの関係を表すもの。帝国主義の時代には、女が男を支配するという「さかさまの世界」が植民地で現出したという想像力の形が現れた。


注1 Noyes, John K., The Mastery of Submission: Inventions of Masochism (Ithaca: Cornell University Press, 1997)