『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

必要があって、映画『ブレードランナ』の原作、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読む。フィリップ・K・ディックが1968年に出版したSF小説で、浅倉久志の訳がハヤカワ文庫から出ている。

映画の視覚的効果も素晴らしかったけれども、原作のほうがはるかにきめが細かく深いテーマがはりめぐらされている。核戦争の後の世界で、放射能灰が降り注ぎ続ける地球が舞台。適格者は火星に移住し、放射能を浴びて異常をきたした人々が地球に残っている。放射能で多くの動物は絶滅し、生きている動物は希少価値をもって高値で取引され、大金を払って生きた動物を買うことが人々の夢となり、それだけの金を準備できないもののためにアンドロイドの人工動物(妙な表現だけど)が代替商品として安値で売られている。主人公のリック・デッカードもそんな人工の羊(「電気羊」)を屋上で飼っていて、本物の動物を買うことを夢見ている男で、彼が脱走したアンドロイドを始末する警察の仕事を請け負っているのも、その賞金で本物の動物を買うためである。金のために仕事をする殺し屋であるリックが、合計6人のアンドロイドを次々に始末していくハードボイルド仕立てのSFである。

アンドロイドと人間の境界のあいまい性は映画よりもさらに強調され、アンドロイドたちは警察の組織の中にも食い込んで、擬似的な警察組織すら持っている。また、テストによれば人間だが、アンドロイドのような行動をする人物も登場して、主人公リックがアンドロイドを始末することの正当性に対する疑いも、より深い形で描かれている。映画では全面的に削除されていたけれども、とても面白かったテーマが、「マーサー教」という、人々がある教祖に共感を感じるためにヴァーチャル・レアリティを経験する機械(エンパシー・ボックス)で、共感する能力をもとに人とアンドロイドを分けている基準が、実は機械で操作されているものであることを示すのに効果的である。しかも、小説の最後で、教祖のマーサーは、実は三流の俳優であってそのヴァーチャル・レアリティというのは安っぽい書割であることも暴露される。人間の尊厳を保証するものだったエンパシーの欺瞞性を情け容赦なく暴き出すあたり、ちょっと痛々しい思いで読んだ。