必要があって、Howell, David L., 『ニシンの近代史―北海道漁業と日本資本主義』(東京:岩田書院、2007)を読む。とても魅力的な本だったけど、必要なところだけを拾い読みにした。
江戸時代から松前藩は「場所請負制」を定め、一握りの特権商人に大規模な交易を認めて運上金を納めさせる制度を作り上げた。初期はアイヌとの毛皮などの交易が主力であったが、19世紀初頭には中心はニシン漁に移り、蝦夷地のニシンは肥料に加工されて近畿を中心に全国に運ばれた。明治維新のあと、場所請負制は廃止されたが、重要な点において連続も見られた。たとえば、ニシン漁の労働者としては、東北出身の農民が用いられ、賃金労働者として漁期には蝦夷地・北海道に滞在するという方法も、江戸と明治の連続である。家族的な漁民でも可能な「刺網漁」にかわり、大規模な「建網漁」という新技術の導入は、蝦夷・北海道における漁業労働力への需要を生み、天保の大飢饉などに代表される東北地方の貧困は、地元では生活できない農民の背中を押して漁業労働者への道へと向かわせた。
明治維新後に漁業生産は急速に増加し、1871年には20万トンであったニシンの漁獲高は、1880年代には60万トンから80万トンにまで成長する(乱獲がたたって、1890年代をピークにして減少する)、これは、場所請負制度という、当時は制約になっていたものを廃止して、漁業が「開放」されたこと、さらなる技術革新があったこと、そして本州の農業が発展してさらなるニシン粕肥料への需要を生んだことによる。この労働者を供給したのは、相変わらず東北出身者であり、1889年には約6万人のニシン漁労働者のうち北海道出身は30%にすぎず、残りの70%は東北出身者で、建網漁に参加する出稼ぎ労働者たちだったという。3月から8月・9月くらいが出稼ぎの時期だったそうだ。
長々と書いたけれども、私にとって必要なポイントは一つで、夏の終わりの函館港には、そこから青森や秋田・岩手の郷里に近い港に向かう労働者たちが群がっていたということである。これが、小規模ではあったがとても面白い、北海道から東北へというコレラ伝播のサブシステムの背後にあった構造であった。