天平の天然痘大流行の背景

必要があって、奈良時代の歴史の教科書を読む。文献は、佐藤信編『日本の時代史4 律令国家と天平文化』(東京:吉川弘文館、2002)。

天平9年(737年)にはじまる天然痘の大流行は、古代日本が経験した疫病の中で最もすさまじいものであった。筑紫から侵入して平城京は言うまでもなく全国を襲い、免疫を持たない人々をなぎ倒すように広まっていった。政界の中心にいた藤原氏の四兄弟は一挙に葬り去られ、一般の人々の被害は激甚であった。『続日本紀』には、「公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、あげて数ふべからず。近き代より以来、これあらず」と記されている。ある歴史家は、中世ヨーロッパの黒死病と同じように、人口の三分の一が失われたと推察している。三分の一という数字がどの程度正しいのか、私には判断する資格はないが、古代日本では最大の死亡危機で、その影響はさぞかし大きかったと思われる。

このように大きな被害が出た理由だけれども、この書物を読んで、大体の見当はつく。まずは、海の向こうから感染症が入ってくることを可能にする、国際的な人間の移動があったこと。遣唐使や、おそらくこちらの方が重要だが、朝鮮半島の新羅と国交があったこと。第二に、国内における律令制度の確立に伴う、組織的でルーティンとしての人の移動があったこと。諸国の物産は調や庸などの貢納として平城京に集められ、それを運ぶものたちが都と地方を行き来していた。それぞれの地方においても、国府と郡衙の間の行き来が密接になっていた。官僚制のもと、中央―国―郡の間の人の移動が確立されていたのである。平城京を壮麗なものにするために建設された宮殿施設や、東大寺の大仏に代表されるような大伽藍は、その建設に携わる膨大な労働力を広い範囲から動員しなければならず、諸国の国分寺の建設も、それぞれの地方の内部での労働力の動員を必要としていた。第三に、これは必ずしも天平天然痘そのものと因果関係があるかどうか分からないが、南九州や東北には、蕃人や蝦夷と呼ばれた、律令制の中に組み込まれていない地域の住民に対して、中央国家は大規模な兵力を動員して制圧しようとしていたこと。つまり、国際秩序の中に組み込まれたこと、国家の内部での組織化が進んだこと、その過程での武力行使のために大規模な人間の移動があったこと、この三つが確認できる。

本書に引用されていた木簡に、以下のような文章があった。

南山の下に流れざる水あり。その中に一大蛇あり。九頭にして一尾。余物を食わず、ただ唐の鬼を食う。朝に三千を食い、暮れに八百を食う。急々如律令

これは、「天然痘の流行とかかわるとみられ、天然痘を引き起こす唐の鬼を大量に食べる大蛇に疫病の沈静化を願ったのであろう」と注釈されている。さらっと書いているけれども、もし本当だとしたら、この病気から守ってくれる大蛇というのは、古代ホラーに出てきそうな神性を帯びた大蛇で、昨日記事にした5世紀のパリのドラゴンとは、また違った意味を持つ怪物なんだろうな。

ちょっと魅力的だけれども、妖怪や怪物の話に迷い込んでいる時間はない(涙)。・・・