ハワイの梅毒

必要があって、ハワイへの疾病の侵入を描いた書物を読む。文献は、Bushnell, O.A., The Gifts of Civilization: Germs and Genocide in Hawai’i (Honolulu: University of Hawaii Press, 1993).

著者は、ホノルル大学微生物学の名誉教授でハワイの医学史の研究者、それに加えて人気がある小説家という三つの顔を持っている。本書は、ハワイがヨーロッパ人によって「発見」されて以降の、新しい疾病の流行、経済的な搾取、伝統的な社会構造の崩壊などにより、原住民の人口が激減する自然史・社会史を描いたものだが、生物学者・歴史学者・小説家という筆者の三つの面がいずれもよく発揮されている。平明でシュアーな感染症のメカニズムの説明と、的確な資料の読解と、まるで映画を観ているような劇的な語り口で、きっとハワイではさぞ人気を博したことだろう。

1778年の1月に、イギリスのジェイムズ・クック船長が率いるイギリス海軍の二隻の船が、ハワイのカウアイ島の近くに停泊した。原住民は、この「二つの動く島」は、神話が伝える神の帰還としてこれを熱烈に歓迎した。船員の中には性病(梅毒と淋病)にかかっているものがいることを知っていて、これまでの航海で立ち寄った太平洋の島々で船員たちが原住民の女と性交した結果、それらの島で性病が蔓延するに至ったことを知っていたクックは、船員に原住民の女との接触を厳禁した。しかし、長い航海の末にたどりついた常夏の豊かな島で、性的におおらかな女性たちが自分たちを神だと思って歓迎して肉体の接触を求めてくる状況で、船員たちにその規律を守らせることは難しかった。2月にはクックは規律が破られたことを苦渋に満ちた筆で日記に記し、その年の11月にふたたびハワイに帰りマウイ島を訪れたクックは、その島の原住民がすでに梅毒におかされているのを知って、「恐れていたことが起きた」と日誌に記す。 

この部分の要約から分かるように、著者は、病気の蔓延を防ごうとしたクックをかなり好意的に書いていて、「ヨーロッパ人悪者説」には与していない。ハワイに梅毒が蔓延して原住民が壊滅的な被害を受けたのは、ヨーロッパ人の個人なり国家なりの責任や悪意に帰すことができないことで、それは、ハワイの孤立した地理的な状況と、ヨーロッパとハワイのそれぞれにおける、人間と病原体との生態学的な関係としての文明の程度の違いによるものだと考えている。この部分は、いわゆる「生物学的歴史」の立場にかなり近い。ただ、この著者はかなり筆が立つ書き手で、その麗筆から、「必然」というよりも「悲劇」だったという雰囲気が立ち上ってくる。