出張の移動中に、ギヨーム・ド・ロリス/ジャン・ド・マン『薔薇物語』を読む。篠田勝英の詳細な注と解説が付された訳がちくま文庫から上下二巻で出ている。
私が学生の頃は、(たぶん)まだ翻訳がなくて、書物でヨーロッパの中世が論じられるときには何かにつけて「『薔薇物語』によると・・・」という形で引用されているのを見て、とても読みたかった本だった。そのタイトルにも惹かれて、憧れていたといってもいい。その憧れの本が、専門の学者によって緻密に訳されて、2000円ちょっとで文庫本で手に入る文明国に住んでいる幸せを実感する。日本の人文社会系の学者の仕事が翻訳に偏っているという批判は、確かに当たっている部分はあるけれども、翻訳は、日本を精神的に豊かにすることに確実に貢献していると思う。
本書は前編と後編に別れ、それぞれ別の人物が執筆したものである。前編はギヨーム・ド・ロリスという、その人生がほとんど分かっていない人物が書き、後編は、ロリスの執筆から40年後に、ジャン・ド・マンというパリの知識人が書いている。どちらも成立は13世紀の間である。ストーリーは、主人公が見た夢の内容であり、夢の中では「私」といわれる主人公は、愛の神が支配する悦楽と歓喜の園にたどり着き、このうえなく美しい薔薇のつぼみに出会い、愛の矢に撃たれる。高い壁に囲まれた庭園の中の真紅の薔薇という設定といい、美しさと優雅さと気高さと方向と若さが匂い立つような女性たちに、醜さと老いと悪臭と邪悪さにまみれた悪役たちを対比させるという設定といい、ものすごく「ベタ」である。しかし、極彩色の錦糸で紡がれたタペストリーのような情景(実際にタペストリーの主題になっていると記憶している)の背後には、邪気がない官能の悦びの賛美といっていいものがあると思う。読んでいて、不思議に心が浮き立ち、落ち着いてくる。その意味で『アラビアン・ナイト』の官能と物語りの喜びとも通じるけれども、『アラビアン・ナイト』が都会の洗練された官能の賛美であるのに対し、『薔薇物語』は、たしかに衣装などの人工物の美しさも歌っているけれども、庭園という人工的に再現された自然空間の賛美である。この物語が数多くの写本になっているのも、この物語を一語ずつ書き写すのは写字生を喜びで満たす行為だっただろうと想像すると、とてもよく分かる。ルネッサンスの大学が薬草園・植物園を作るときに、あれほど美しい空間を作り出したのも、この作品を下敷きにすると、とても共感できる。日本の大きな製薬会社が岐阜に薬草園を公開していて、お世話になっている施設にこういうことを言って申し訳ないけれども、あの薬草園は農業試験場がそのまま現れたという感じがする。
後編は、知識人が書いただけあって、登場人物が物語るという形で、当時の思想や学問の百科全書のような蘊蓄が延々と続く。実はこちらの錬金術に関する部分を読む必要があって、この部分は仕事の材料としてとても面白かった。