レベッカ・ブラウン『体の贈り物』


必要があって、レベッカ・ブラウン『体の贈り物』を読む。柴田元幸訳で新潮文庫から出ている。

翻訳者の柴田元幸が「あとがき」で的確に書いているが、この書物は、エイズ患者を世話する女性のホームケア・ワーカーを語り手とし、彼女と患者たちの交流をめぐる物語りである。柴田によれば、下手をすると底抜けに陳腐なものになる素材だが、この作品としては陳腐ではないという。柴田の解説は、色々と突っ込みどころがあって、エイズ患者の世話をする物語というのが、「陳腐になりがちな」素材であるという発想がまず面白い。私もそれはなんとなく共感するのだけれども、それはなぜだろう?もうひとつ、この作品は陳腐ではないといっていて、それにも私は共感するのだけれども、陳腐でなくて、では何なのだろう?

歴史家ふうのことを少しだけ書くと、これは「看病記」といえる一つの文学のトポスである。そう分類できない作品の中にも、「看病」をプロットに持つ文学作品はとても多い。戦前の日本では堀辰雄だとか横光利一(『春は馬車に乗って』)など、看病文学が花盛りだった。看病記を読むには、それがどんな医療の場に設定されているかは重要で、病院が一般化する以前はもちろん家庭だったし、『若草物語』のオルコットが書いた短い記事は、軍陣病院に設定されている。

レベッカ・ブラウンの作品の設定の特徴は、やはりエイズ患者の治療から死に至るまでのプログラムの「中途段階」で働いている女性を主人公にしていることである。これは、ブラウンその人の経験を忠実になぞっていると考えていいのだろう。ブラウンが交流するエイズ患者は、自立して生活することができなくなっているが、まだホスピスに行くほどは悪くない。だから、ブラウンの患者たちが、ホスピスに行くと、彼女はある種の離別を経験する。また、彼女のようなヘルパーは、メインの患者を持ち、サブで入ったりと、行政やNGOの組織のスケジュールにあわせて、受け持ちの患者をみる。一人ひとりの患者をみるのは何時までとか、今日はメインが都合がつかないから一日だけサブに入るとか、複雑で、いくつにも分割された官僚的な組織機構の中で分割され、自分が死を見届けるわけではないことを知っている患者との出会いが、この書物の素材である。ぶつぶつに切られた看病経験の無情な断片性をつないで、患者たちの物語が作られているのである。 

それは、同じ一人の人にずっと看病してもらうのがいいのかもしれない。けれども、ブラウンが描くぶつぶつに切られた看病が、する側にもされる側にも、不思議に「普通な」感じを作り出している。 

画像は、シャルダンの1747年の作品で、「病人のための食事」(「注意深い看病者」とも呼ばれた)で、女性がゆで卵の殻を注意深くむいているシーン。