古代日本の水銀産業

必要があって、古代日本の水銀産業についての書物を読む。文献は、松田壽男『古代の朱』(東京:ちくま学芸文庫、2005)

古代日本には、あちこちに水銀の産地があった。水銀とイオウの化合物は朱砂・辰砂・丹砂などと呼ばれ、しばしば地中から赤く露出していた。そのような土地は「丹生」と呼ばれ、水銀採掘と蒸留(エア・リダクション)によって朱砂から水銀を得る技術を持っていた人々は「丹生氏」と名乗り、そこには丹生津姫(にうつひめ)なる女神(水かね姫とも言われるそうだ)が祭られた。この水銀の産地の分布を、「丹生」を中心に地名から探索して特定し、現地に出かけて土壌を採取して微量水銀を検出して確かめるという、歴史学としては異例のリサーチをしている。群馬、和歌山、奈良などに産地が多く分布している。

朱砂は赤色(今、朱色というと思い浮かべる、少し黄味・ミカン色がかったヴァーミリオンよりもずっと鮮やかな赤だそうだ)の顔料として使われただけでなく、朱砂を蒸留して得られた水銀は、薬の原料、白粉の原料、鍍金の材料、アマルガムを作っての金属の精錬などに使われた。奈良の大仏は金色に輝いていたが、これも水銀を用いて黄金を鍍金したものであった。それから、もちろん、水銀は有名なミイラの防腐剤にもなり、多くの即身仏は、生前に水銀を服していたという。ここには、もちろん、中国の道教の中で形成された不老不死のための「練丹」という技術がある。

日本の水銀生産は平安期には中国に輸出するほど盛んであったが、それぞれの「丹生」は、当時の技法ではすぐに掘りつくしてしまい、鎌倉・室町と低調で、江戸時代には国内生産は枯渇しむしろ外国から輸入している。明治になると北海道で水銀が発見され、また各地の水銀鉱山も復興した。

みずから一匹狼と自称している学者らしく、議論の仕方や文体や口吻にかなりの「くせ」があることと、水銀の産地がどこそこにあったということから何を言いたいのかというのが見えてこないという欠点はあるだろう。しかし、地名と伝承の類だけを頼りにして、土壌分析のために日本中回って歩いたリサーチに基づく、その部分に関しては抜群に水準が高い書物であることは間違いない。