『「いき」の構造』

必要があって、九鬼周造『「いき」の構造』を引っ張り出して読む。1930年に雑誌に掲載された有名な作品だけれども、奥付を確認したら、岩波文庫に入ったのは意外に遅く、1979年であるのに少し驚いた。私が持っている本には、1982年と入っていて、その三年で既に6刷を重ねているから、大変な勢いで売れたのだろう。82年というのは私が大学に入った年だから、よく憶えていないけれども、大学の先生に勧められて買って読んでみたのだろう。いま読み返してみると、たしかに、教養課程(という言い方はいまはしないけれども)の学部新入生に勧める書物の女王として君臨するにふさわしい。でも、玉座につくまでには、意外に時間がかかったようで、そのあたりの経緯をちょっと知りたい。

媚態・意気地・諦観という三つの内包的な特徴と、上品―下品、派手―地味、甘み―渋み、意気―野暮という外延的な類似概念との比較は、有名な議論だから、ここで繰り返すことはしない。このあたりは大学生なら普通に読めば分かるところである。有名な「なぜ縦じまは<いき>なのか」という議論も、議論についていくのは難しくない。大学一年生の私が、間違いなくまったく着いていけなかった箇所は、色彩における「いき」とはどんなものかを論じた箇所だろう。

九鬼は、江戸時代のいきな服装の描写をひいて、「いき」な色は「第一に鼠色、第二に褐色系統の黄柄茶と媚茶、第三に青系統の紺と御納戸である」と書いている。それからは、もう色の名前の洪水で、深川鼠、銀鼠、藍鼠、漆鼠、紅掛鼠、白茶、御納戸茶、燻(ふすべ)茶、木賊色に鶯色・・・ いまでは、こういう色の特徴を知るのは、とても楽しくて、しばらく『色の手帳』だとか吉岡幸雄『日本の色辞典』などを繰って、色を確かめてみた。「燻茶」というのが手ごわくて、見つからなかったけど。「焦げ茶」「煎茶」(という色の名前もあるんですよ)に対して「燻し茶」ということなのかな。 でも、大学一年生の時には、これはまったくついていけなかっただろう。 

私的なことになるけれども、私が『色の手帳』なんかを持っていて、ときどき色の名前を調べているのは、実はイギリスにいたときのショックである。私は、自分が、身の回りにいるイギリス人たちに較べて、色彩の語彙が圧倒的に少なく、しかも不正確であることに、相当な衝撃を受けた。それまでは、何の根拠もなく、日本語は感覚を表現する語彙が多い言語であり、日本人の色彩表現はイギリス人よりも繊細であると漠然と思い込んでいたのだけれども、それは現在では、正反対だと思う。(ついでにいうと、こちらも確信はないけれども、現在の日本人が使う味覚表現の語彙も、かなり貧弱なのではないかという不安も持っている。)たしかに日本語には色々な色の名前があるのかもしれないけれども、自分が日常的に使える色の名前は、クレヨン12色の色の名前だけである。私が、「緑」の上に限定句をつけて言う色(濃い緑、明るい緑・・・)を、イギリス人であれば、苦もなく、オリーヴとかピスタチオとかいう色の名前で呼ぶ。 

しかも、私は、そのクレヨン12色の名前を、しばしば間違って使う。ヴァイオレットのバラをさして、blue rose であるといったときには、普段は礼儀正しいイギリス人も、驚いて、あれは blue ではないんだよと教えてくれた。その口調は、コレラ患者の吐しゃ物を処理した手でそのまま調理をする未開人に、そうしてはいけないんだよと説いて聞かせるような口調でもあり、江戸前の寿司をしょうゆでびしょびしょにして食べる外国人に、そう食べるんじゃないよと私たちが説明するときのような口調だった(笑)

私は、日本の学校教育は、そんなに悪いとは思っていないけれども、諸外国に較べて間違いなく劣っているのは、色の名前を教えてくれないことだと思う。 それとも、習ったけれども憶えていない私の責任なのかなあ。