必要があって、唐の時代の中国の疫病を論じた研究論文を読む。文献は、Twitchett, Denis, “Population and Pestilence in T’ang China”, in Wolfgang Bauer ed., Studia Sino-Mongolica: Festschrift fuer Herbert Franke (Wiesbaden: Steiner, 1979), 35-68.著者はイギリス人で、戦後に日本で最高水準の中国史を学び、ケンブリッジとハーヴァードで教えた、英語圏の中国史の碩学。日本の中国研究の水準は非常に高く、英語圏で中国研究者として一人前になるには、まず日本語を学べという冗談があるくらいだとこのあいだ聞いたけれども、このころからそうだったのだろうか。
この論文は、唐の時代の中国の疫病の記述を歴史書・年代記などから拾って、そこから、疫病が当時の人口に与えたインパクトを読み取ろうとしたもので、さすが当代一流の中国史家だけあって、議論の運びにいちいち説得力がある。まず出発点として、年代記や歴史書が「疫病があった」と書いているときに、それを信じることが出来るのかという問題がある。私は、これが正しいかどうか判断する資格はまったくないけれども、頭が三つあるウシが生まれたとか、その手の「異兆」とちがって、洪水や疫病については、史書や年代記の作者は基本的に事実を記しているという議論は面白かった。
何よりも優れていて、大きなヒントになったのは、長安付近で636年にはじまり、655年に20年かけて東の江蘇省に到達した疫病が、国内では運河や河川の交通路に沿って広がっていること、国外的には、いわゆる西域の、トルキスタンや中央アジアから持ち込まれた病気である可能性が高いことを論じている箇所である。一方、8世紀になると、揚子江の河口や福建省などから疫病が発生するパターンが現れている。これは、中東から「海のシルクロード」を経由して入った疫病が、安禄山の変などの戦乱で荒れた地域に広まったものだという。当時、東地中海、アラビア半島、西アジア、中央アジアにいたる地域で長期的なペストの流行があったことを考えると、この疫病はどちらもペストである可能性が示唆される。だとすると、陸のシルクロードと海のシルクロードの双方から挟み撃ちにされている唐王朝の姿が浮かび上がってくる。
これが本当にペストだという証拠は薄弱だが、そうでないとしても面白い図式になると思う。