日本の戦争奴隷

必要があって、室町・戦国時代の日本の戦争の悲惨さを描いた書物を読む。文献は、藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(東京:朝日選書、2001)

著者は日本中世史の偉い先生で、ソフトな語り口に鋭い問題意識と、あともちろん大変な博識で、沢山の書物を書いている。私は寡聞にして初めてこの著者の書物を読んだけれども、門外漢の私にも分かりやすく説得力がある書き口で、売れっ子なのがよく分かった。

「七度の飢餓に遭っても一度の戦いに遇うな」という日本のことわざがある。その意味は明白で、「一回の戦争の惨禍や被害は、飢饉の七回分にもあたるような、すさまじく巨大なものである」ということだろう。このことわざが発生した時代・文脈としては、確証はないが、日本の全土が内戦に明け暮れていた戦国期という考えられるだろう。室町時代・戦国時代の日本の戦争は、大河ドラマで人気俳優が演ずる武将たちの華々しい合戦という側面だけではなかった。その戦争は、想像を超えた悲惨と暴行が行われる場であると同時に、当時の民衆のエネルギーが発揮される空間でもあった。

飢饉のときに限って、人身売買を認める慣行が日本にはあった。例えば、飢饉のときに困った親が、養ってくれる人物に自分の子供を売るというような例が挙げられている。鎌倉幕府は、飢饉のときに限ってこれを認め、それにまつわる法的な規則を作っていたし、似たようなお触れは17世紀に徳川幕府も出していた。

14世紀・15世紀に、異常気候などで飢饉が起きたときに、村で生活できなくなった人々は、飢饉のときの公共事業(今の言葉で言う)などが提供され、まだ生存の可能性がある都市、特に京都に向かった。1467-77年の応仁の乱の前には、度重なる飢饉と難民の流入のために、京都のかなりの部分は難民部落と化し、この難民たちは徳政や徹底的な世直しを叫んで、略奪・暴行でもあると同時に世直しでもある暴力行為を繰り返していた。応仁の乱は、この難民たちの暴力行為の延長上に起きていた。

戦国大名たちの争いにおいても、戦場や軍隊の行軍の経路にあたった村は、略奪と破壊の対象となった。農作物は略奪され、刈り取る寸前の稲が兵によって奪われ、女は陵辱された。これを「乱取り」などという。大名たちはこれを繰り返し禁じたが、効果のほどはわからない。村も、ただ蹂躙されていただけではなく、大名と取引して乱取りをまぬかれたり、自衛したり、村の裏山などに築かれた城にこもって抵抗することもあった。

16世紀は、日本が戦争奴隷を輸出した時代でもあった。薩摩の島津が豊後の大友を攻めたときに、婦人・女性をレイプし、少年を男色の対象にした。戦場でありがちな性暴力である。それだけでなく、戦場となった村の村人を戦争奴隷として捕まえて売りつけていた。たぶん性的な商品として高く売れたので女性のほうが多かったが、他にも女性には色々な使い道があったらしい。兵士の結婚相手という使い道まであった(笑)。この戦争奴隷たちは、長崎の平戸のポルトガル商人たちによって東南アジアに売りさばかれ、日本女性は小間使いなどとして使われたという。ついでに言うと、秀吉が朝鮮に出兵したときも、現地で奴隷狩りが盛んに行われ、人買いの商人もついていき、日本の戦争奴隷と同じように、長崎や平戸から国際的な奴隷市場へと売りさばかれたという。

やはり「武家の時代」の内乱というのは、血なまぐさい。これは私の個人的な感想だけれども、鎖国になってよかったことは、この奴隷市場から撤退したことかもしれない。

これだけ暴力と軍の行動が詳細に書いてある書物だけど、「陣営で感染症が流行った」と書いてあった記述は一回だけで、1561年の上杉と北条の対立のときのことである。