必要があって、日本中世の癩者についての論考を読む。文献は、横井清『中世民衆の生活文化』上・中・下(東京:講談社学術文庫、2007)「中世民衆史における『癩者』と『不具』の問題」下巻131-191ページ。癩やハンセン病をどう呼ぶかということからして難しく、他の方法もあると思うが、歴史的な正確さを優先したいときには癩、現代の医学に照らして考えたときの疾病を指したいときにはハンセン病ということにします。
癩病となり、その確かな証拠が出ると、患者本人と親類が相談して(しばしば親類による強制もあったと想像される)、患者は非人宿に引き取られる仕組みになっていた。非人宿というのは、浮浪したり物乞いをしたりして生きざるをえなかった人々が集まって暮らすたまり場であり、それを管理する非人長吏がいて、また、複数の非人宿は階層的に組織されていた。この非人宿に親類が癩者を送り込むときに、一定額の謝礼を払ったので、この謝礼について法外な額を請求したり、癩者がいる家族に圧力をかけて非人宿に引き込もうとしたものもいた。律宗の僧で癩者の救済で名高い叡尊が非人長吏と交わした書状には、これらの行為を禁ずるむね書かれている。
親類から謝礼をもらう癩者以外に、非人宿は路上にすでに浮浪している癩者も集めていたという。その理由は、癩者は、そのむごたらしく変形した身体などから、寺社の門前などで物乞いをするときに、人々の注目を集める、施しの稼ぎ頭であったからだろう。さらに横井は、非人長吏はこうやって癩者に稼がせた施しを癩者から巻き上げ、寺社は、門前の非人たちから場所代を巻き上げる仕組みがあったのだろうと推測している。
横井がいうところの素朴な「医学史的な視点」から出た疑問だけれども、無視することができない問題がある。それは、ハンセン病の疫学の問題である。色々な文献を見ると、この時期に癩が社会の記録に現れはじめるだけでなく、癩者への対応が、近代以前の日本史の中でいうと一つのピークに達するといってよい。叡尊や忍性の活躍に比すべきものは、それ以後、明治まで・あるいは昭和まで現れない。江戸時代には救癩のヒーローはいない。
この癩への対応と、ハンセン病の疫学は、どのような関係があったのだろうか。ほぼ同時代のヨーロッパでは、11世紀から12世紀にかけてレプラ患者の収容院が多く創られ、これらは13世紀から14世紀にかけて少なくなった。ハンセン病は、ノルウェーなどの北欧を除いて、西ヨーロッパでは17世紀には事実上消滅していた。日本においては、ハンセン病が17世紀に消滅していたというのは、まずありえないが、鎌倉時代は、どのような疫学的な長期の変化の中に位置づけられるのか。叡尊や忍性の活躍は、疫学的に、ハンセン病が上昇していく過程に対応していたのか、あるいは、ハンセン病自体は定常・あるいはむしろ減少していたにもかかわらず、ハンセン病への対応が(差別と救済の双方をさす)大きくなっていたのか。