フランス旧制度下の病院

必要があって、アンシャン・レジームのフランスの病院を論じた論文を読む。文献は、Jones, Colin, “The Construction of the Hospital Patients in Early Modern France”, in Norbert Finzsh and Robert Juette eds., Institutions of Confinement: Hospitals, Asylums and Prisons in Western Europe and North America, 1500-1950 (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), 55-74. 著者は英語圏におけるフランス医学史研究を牽引してきた実力者で、明快なまとめと示唆に富む仕事を数多く発表してきた。

フーコー以来、1790年代の「臨床医学の誕生」をもって、フランスの病院の歴史に断絶を見ようとする態度が定着しているが、この論文はそれを批判して、より長期的な流れの中に病院の医学化を置こうとしている。

まず、中世・初期近世の「ホスピタル」が扱っていた雑多な対象が、順次失われて行って「病人」だけが残り、ホスピタルが医学的な空間になるという「ストリップティーズ型」について。かつてのホスピタルは「困っている人」の面倒をみる空間であった。病気で困っている人もいたけれども、障害、老齢、貧困などで困っている人の面倒も見ていた。意外に多かったのが、巡礼の途中で宿に困っている人であった。いまは悔い改めているけれども過去に売春をしていて、その過去のせいで困っている人たちもいた。この雑多な集団から、もともとハンセン病は除外されていたし、近世初頭にはほとんど消滅していた。巡礼は退潮したり、乞食との境界があいまいで問題視されたりして、巡礼の面倒をみる必要がなくなった。ペストと梅毒はホスピタルから除外されていた。

16世紀の人文学者のヴィヴェースの方向で救貧が再組織化されたときに、雑多な収容をする一般施療院 とオテル・デューの間に分業ができて、病人はHDがみることになった。一般施療院とHDのあいだで、収容者が病気になったら前者から後者へ移送する契約も結ばれた。HDは医学的な性格を帯びることになった。

17世紀に宗教団体による看護が一般化したことも、医学化を進行させた。宗教と医学は対立しない。サン・ヴァンサン・ド・ポールとルイーズ・マリニャクが1633年に始めた「慈善の娘たち」は、修道女が医療看護ができるように訓練して、多くの病院/ホスピタルに配した。この結果、フランスの病院/ホスピタルのケアは充実した。宗教色がはいったことで、性的な弛緩が絡む収容者、たとえば性病や未婚の母などはHDへの収容が禁じられることにもなった。それと同時に、医学の心得をもった修道女たちが入ることは、医学化の側面を持っていた。