熱帯の自然の表象

必要があって、熱帯の表象のイメージを論じた論文を読む。文献は、Arnold, David, “’Illusory Riches’: Representations of the Tropical World, 1840-1950”, Singapore Journal of Tropical Geography, 21(2000), no.1, 6-18.

近代にはいって、熱帯地方についてのイメージは大きく変わっている。かつては、暖かい気候がもたらす自然の豊穣に恵まれた、エデンの園のような豊かな土地というイメージがあった。これは、たとえばコロンブスのように、自分が「発見」した土地の価値を誇張して報告しようということもあったが、そういった山師的な誇大広告の域をはるかにこえて、たとえば19世紀ヨーロッパを圧するアレクサンダー・フンボルトにおいても、有機的な統一体をなす自然をもっとも豊かに表すものとしての熱帯地方というイメージが作られていた。フンボルトは、文学や芸術を動員した自然の全体的な理解を唱えて、知識人全体にその影響を及ぼしており、ダーウィンやウォーレスといった数々の自然史家たちが憧れていた偉大なヒーローであった。

これと並行して、しかしこれと矛盾する像が結ばれていく。熱帯のすさまじい嵐や猛獣が象徴する暴力的な自然、病気、怠惰な人間などである。これらが、進化論の中に取り込まれて解釈されると、熱帯の自然は「退化の風景」(landscape of regression)となる。そこは時間の経過がとまった、あるいは時間がゆっくり流れ、過去の時間が閉じ込められた風景になる。人間も自然も原始時代のままである。(それを最もあからさまに表現したのがドイルの『失われた世界』。)

もうひとつ、19世紀の北米とイギリスの熱帯性、そして熱帯移民は、熱帯移民により熱帯を文明化することに失敗した(と彼らは考えた)スペインとポルトガルの中南米の移民政策、特に白人が現地人と結婚して混血を作ることの批判から出発していたという。だから、彼らは移民した白人の純潔を守ることに熱心だったという。