日本中世の医学

必要があって、新村拓『日本医療社会史の研究』(東京:法政大学出版局、1985)を読み直す。この書物自体は、古代・中世の医学史の色々な主題に関するややまとまりを欠いた論文集だし、きっと、それぞれのテーマについて、その後もっと研究が進んでいると思うけれども、それぞれの論文には新しい領域を開拓する新鮮な息吹が感じられて、私が愛読している書物である。

慈善としての医療は、仏教と当時の権力との深い結びつきの中で行われた。貧者や病人に医薬やケアを施す施薬院(これは、もともとは「ヤクイン」と読んだらしい)や悲田院が設立されたのは、聖徳太子伝説にまでさかのぼることができるが、実在を確認できるのは、天平時代に光明皇后と深く結びついて立てられた施薬院である。諸国からの税収をもとに運営され、東大寺正倉院から名薬を買って人々に与えていた。ベトナムや西域からもたらされた薬が平城京の貧者の体の中を通ったのかと思うと、ちょっと不思議な感じがする。平安京に遷都されたのちは、藤原氏が積極的にその経営にかかわった。光明皇后藤原不比等の娘であり、その事業を顕彰し継続する意味合いがあっただろう。この施薬院は自身の薬園をもち、また所領地からの収入で運営されていた。悲田院も建てられたが、こちらは、路辺の病人や孤児を集めて収容することが主たる事業であった。

この路辺の病人の問題であるが、ここには、「死と穢れ」の問題が横たわっている。当時、病人、それも死に臨んだ病人を家から追放して遺棄する慣習が広まっていたと考えられる。たとえば弘仁4(813)年の太政官符によれば、「生を重んじ、命を愛することは、貴賎にことなりなし。今、天下の人、僕隷あり、平生の日はその身を役し、病患の時には、即ち路辺に出る。看養人なく、ついに餓死する。」と記され、隷属民が病気になったからといって、その穢れを嫌って放逐し遺棄することを戒めている。(この引用では、穢れを嫌うのが原因であることはよく分からないが、別の資料では死と病気の穢れが問題であることがよくわかる。)

もうひとつ、いわゆる「往来もの」と呼ばれる、手紙の書き方を通じて文章作法などを教えるテキストがあったが、その中に、病状を説明して薬を求めるという主題の手紙の往来が頻繁に登場するという。これは、18世紀のイギリスでは、有名な小説家のリチャードソンが編集した Familiar letters という形式と通じるものがあるし、「文通診断・文通治療」というのは、医学史家によって注目されているジャンルである。ちなみに、新村は、「往来もの」の主題に医療が含まれたことから、貴族に占有されてきた医薬知識が、室町時代からより広い社会に広まったという解釈をしている。まあ、これはこれで、いい。

・・・ちょっと、このリサーチをして論文を書きたくて、うずうずしてきたけど、いまの仕事が終わるまで、抑えないと(笑)