大槻玄沢『磐水存響 乾・坤』大槻茂雄編(1914[?], 京都:思文閣出版 1991年)
大槻玄沢は、『解体新書』の杉田玄白と前野良沢に学び、18世紀から19世紀にかけて、江戸の私塾であった芝蘭堂で蘭学者の教育にあたった、蘭学の巨人の一人である。彼の著作などがまとめられた書物があったので、眺めてみた。1991年に復刻が出ていて、もとは大正時代に発行された書物らしいが、復刻には説明や解説がないので、よくわからない。
大槻玄沢は、『解体新書』の杉田玄白と前野良沢に学び、18世紀から19世紀にかけて、江戸の私塾であった芝蘭堂で蘭学者の教育にあたった、蘭学の巨人の一人である。彼の著作などがまとめられた書物があったので、眺めてみた。1991年に復刻が出ていて、もとは大正時代に発行された書物らしいが、復刻には説明や解説がないので、よくわからない。
病家に対して、医者の側から批判をするという「病家三不治」という文章が「坤」の巻の冒頭近くにあった。これは、賤者、豪家、貴人の三つについて、それぞれの人々が病気になったときにどのように振る舞うか、その振る舞いのうち、どの部分が有害なのかということを論じた小文である。賤者の問題というのが、やはり明治初期のコレラ流行の時の言説と重なる部分が多くて、面白かった。
ヨーロッパにおいても、貧者が病気にかかりやすく死亡率も高いという事実が<発見>され、医者たちに共有されるのは19世紀に入ってからであって、それ以前には、貧者のほうがむしろ健康であると思われていた。これは、内科医たちの診療のコアは私費診療であって、彼らの病人は富裕な層に大きく偏っていたため、富裕な人間が病気になりやすいという錯覚を持ちやすかったこともあるだろうし、質実剛健な生活は人間を健康にし、華美な生活は虚弱にするという、古典古代以来の思想が機能していたこともある。[sources??? Check!!!] 日本の江戸時代においても、質実剛健な生活は人を健康にするという思想は、医者たちが共有するものであった。この基本的な発想から、いくつかのヴァリエーションがみられ、一方では社会階層において富裕なものにはむしろ病人が多いという社会的な言説になり、一方では都市と田舎においては都市のほうが不健康であるという地理的な言説になり、またもう一方では、太平の世においては人々は不健康になるという歴史的な言説になった。[sources???]
大槻玄沢も、「賤者」について、彼らは自然から受けているもの(稟受)が強く充実しており、労働のために身体が優れているので、病気になったとしても、自然の力によって自ずから治り、これは、「賤しい身に備わった天幸」であると言っている。そこから一歩進んで、賤者特有の療病上の問題があるという。それを一言でいうと、「無知」であるということに尽きる。無知であるから、自分の身に降りかかった病気の状態がわからず、そこらで売っている売薬をむやみに服する。同じように無知な同類が集まって、病気について言われたことを信じて、あれこれとやってみる。神罰だとか「もののけ」だといわれると、それを信じて宗教的な治療に走る。賤者の問題は、何かができないこと・しないことではなくて、無知のために何かをしすぎることである。