医制の位置づけ

必要があって、大正14年の医者の広告についての議論の一つを読む。文献は、綱島覚左エ門「医師法第七条の歴史的意義を論ず―(亀山法学士の論文に付加して)」『医界時報』No.1594(1925), 370-376. 短い論考だけれども、近代日本の医療体制の根本を正当化した、優れた論考で、確かに一面的なところはあるが、これほどすぐれた「医制」の位置づけを私は読んだことがない。

この議論の背景には、当時、医師の広告が目に余る事態を呈していたということがある。それにどう対応すればいいかを、江戸時代の状況から明治にいたる過程、特に明治7年に定められて以後、近代医療行政・立法の根本となっている「医制」を位置づけながら論じたものである。

医制の決め手は「医術に科学的基盤を確立したことであった」という。これが、国家が医療とかかわることを決めたときの、基本的な出発点であった。それまでは、医療の世界は、雑駁と乱脈が支配する無秩序な空間であった。そこに、普遍妥当性を生命とする科学を基盤にした、新しい国家と医学のかかわりかたが導入された。それまでは、漢方(という言葉は当時はなかったが)の流派が、ギルド的に医者を教育し、薬切りに始まって、薬盛り、代脈を経て、経験を積み重ねて医者先生になっていた。鍼・灸・あんまは、各人の自由営業であった。基本的に、誰でも医療を営んでよかったので、幇間医者、文盲医者、半儒医者、半宗匠半医者など、きわめて多様な医者たちが跋扈し、同じ病気でもそれぞれに診断が違う、同じ診断だとしても薬が違い、またそれぞれの薬も、医者によっては秘薬がある、むしろ医者それぞれの秘薬の開発こそ成功の鍵を握っていたという状況であった。

それに対し、医制、とくにそれが普遍妥当する科学的な医学に基づいていたことは、国家が国民に等質な医療を保障したことになる。医師は違っても、国家によって認められた医者であるかぎり、医療は誰でも同一であるという建前が成立した。これにより、医師は同一・等質であり、診断と治療の同質も保障できた。もちろん明治初期の現実は異なっていたことは言うまでもない。しかし、漢方には、どこまで行ってもその等質と科学的な根拠がなかったということは、特筆しなければならない。

いや、これはもちろん一面的な見方である。また、これは、医制そのものというより、大正の医療界について教えてくれるといったほうがいい。「だから医制は正しかった」という正当化が、大正のこの時期に現れたことの意味は、意外に重要だと思う。