しばらく前の『道具づくし』と同じ趣向の、別役実のドライなユーモアで、彼自身を含めて現象学系のペダントリーの鋭利なパロディになっているエッセイ集。これも大いに楽しんで、笑いながら読んだ。これが笑えるということは、私自身もこのパロディの対象に入っているんだろう。そんなこと、このブログの読者たちは先刻承知だと思いますが(笑)
冒頭から引きましょうか。
「近代科学はこれまで一貫して、妖怪変化のたぐいを無視してきた。もちろんこのことは近代科学にはじまったことではない。孔子の『論語』の中に、君子は怪力乱心を語らず、とあり、すでにそのころから良識そのものが妖怪変化のたぐいを無視しようとしていたことが知られている。むしろ近代科学は、良識の促すそうした遠く太古よりの圧力にやむなく屈したのだともいえよう。(中略)近代科学者たちが、えてして湿気のない部屋に住みたがり、白衣を着たがり、眼鏡をかけ、鉛筆の先をとがらせ、数字と機械に囲まれたがったのは、おそらくそのせいである。そのようにして彼らは、妖怪変化のたぐいだけでなく、その気配とも無縁になろうとしたのであり、そのようにしてしか近代科学者たりえないと考えたのであろう。(中略)そして今日にいたり、改めて振り返ってみると、かつて妖怪変化のたぐいがそうであった「いかがわしさ」とまったく正反対に位置しながらも、同様のいかがわしさをほかならぬ近代科学が、そこはかとなく匂わせはじめていることに、我々は気づくのである。しかも、「試験管ベビー」や「遺伝子の組み換え」や「臓器移植」や、その他この種の匂いに接する機会が、ここへきて急激に増加しつつある。もし今日、孔子が生きていたら、その『論語』に、君子は近代科学を語らず、と書くことになっただろう。」
臓器移植や試験管ベビーの倫理などは研究の一大テーマになっており、それを真剣に研究している人たちが知人に多くいる。(臓器移植の件数よりも、臓器移植の生命倫理の研究者のほうが多いそうだ。)彼らの努力はもちろん尊敬しているけれども、別役が半分冗談でいうところの「君子は近代科学を語らず」という言葉は、意外と多くの知恵を含んでいるように思う。そんなこと、多くの研究者は先刻承知だと思いますが。