黄熱病の発見

必要があって、黄熱病の感染経路の発見の歴史書を読む。文献は、Delaporte, Francois, Hisotire de la Fièvre Jaune: Naissance de la médecine tropicale (Paris: Éditions Payot, 1989), フランソワ・ドラポルト『黄熱の歴史』池田和彦訳(東京:みすず書房、1993)

黄熱病の感染経路の発見と、その「征服」の歴史には、二人のヒーローがいる。一人はキューバの医師のカルロス・フィンレイで、彼は1881年に蚊がこの病気を媒介することを発表した。もう一人は、アメリカの軍医のウォルター・リードで、かれが率いるアメリカの研究チームは、1898年から1900年に兵士からのヴォランティアに凄絶な人体実験を行って、蚊による媒介を証明した。この証明に基づいて、アメリカがパナマ運河の掘削に成功したことは熱帯医学の歴史の中で最も有名なエピソードである。どちらが黄熱病の感染経路の発見者であるかということをめぐって、キューバとアメリカがお国自慢をしあい、キューバは国際医学史学会に何度もフィンレイを発見者として認めさせ、アメリカのクイズ番組でリードを発見者とする正解に抗議をしたりしたそうだ。話がこうなると、歴史的に重要な事実というのは、たいていむしろ見えなくなってしまうものである。この書物は、フィンレイとリードたちの黄熱病の概念化にかかわる歴史を、当時の熱帯医学における病原体や中間媒介者などの概念の文脈の中に位置づけた、科学の概念史である。 

意外な決め手になったのが、「蚊は二回刺すか?」という問題であった。フィラリア症を研究したイギリスの医者で当時中国のアモイにいたパトリック・マンソンは、フィラリアをおこす寄生虫の生活環が蚊の体内で起きるということを実証しながら、「蚊が二回刺す」ということを見抜けなかったので、蚊が水辺で産卵して死んだ後に寄生虫が水に放たれて、それを人が飲むことで感染が起きると考えた。一方、フィンレイは、蚊が二回以上刺すということを見抜いていて、蚊が媒介するということを的確に見抜くことができた。

マンソンの失敗は、それこそ画竜点睛を欠くというやつだけれども、蚊が二回刺すことなんて、そんなに難しい問題だったのか、ちょっと不思議である。体に止まった蚊を叩いたときに、その蚊が前に人の血を吸っていると、蚊の叩き潰された惨殺死体の中に赤い血がまじった、日本の夏の風物詩が見られるじゃないですか。確かに、これは血を吸った直後だけれども、私には、血を吸うのは一回とマンソンが決めてかかっていたほうが説明が必要な史実に思われるけど。

黄熱病は、日本では野口英世が病原体を発見できずに、それに罹って斃れた歴史として名高い。野口の黄熱病研究というのも不思議なことが多くて、私が読んだ筑波常治先生の新書では、ほとんどミステリー仕立てになっていて、野口をはめようとした陰謀があったことすら否定していない。(それを主張しているわけではないけど。) 野口の黄熱病研究の謎については、きっといい研究があるのだろうな。実は、私、そういういい研究を読んだことがないんです。