神経学の闘病記

必要があって、20世紀ソ連の神経学者が編集した、頭部に傷害を受けた患者の長大な手記を読む。文献は、Luria, A.R., The Man with a Shattered World: the History of a Brain Wound, translated from the Russian by Lynn Solotaroff, with a foreword by Oliver Sacks (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1972). 有名な神経学者のオリヴァー・ザックスが序文を書いている。

ルリア(1902-1977)はロシアの偉大な神経学者で、パブロフやフロイトに影響を受けながら、直接の師であるヴィゴツキーの研究を更に深めて発展させた大脳生理学者であるとのこと。体系的で理論的な名著も多く書いているそうだが、彼自身が「ロマン派の科学」と呼んでいる方法を用いて、ある個人の症例を深く記述した書物を二冊出版していて、そのうちの一冊がこれである。

この著作の主人公はザゼツキーというロシアの技師で、第二次大戦中の1942年に戦場で頭部に弾丸で深い損傷を受け、一命は取りとめたが、視覚と記憶の機能が大きく損なわれた。彼の目に映る世界は歪んで混沌としたものとなり、自己の身体感覚も狂って、頭が巨大だったり足が細かったり感じられた。物を見ても名前を思い出すことができず、ロシア語の単語もアルファベットも読むことができず、外国語だと思うほどであった。彼がそれまで生きていた世界は完全に破壊されたのである。 

この状態からリハビリが始まる。言語機能回復の部分では、まずアルファベットの読み方からはじめなければならない。それらを、自分の名前や、自分の家族の名前の最初の音と結びつけて憶えだす。あるいは、少し進んで単語や文を書くときには、ペンを紙から離さないで流れるようなリズムを維持して書くと、一つ一つの単語を書くのにそれほど苦労しない。この発見は、彼が文章を書くのを大変助けることになった。

それにもかかわらず、彼は結局、一人前に仕事をしたり家の手伝いをしたりすることができるようにはならなかった。しかし、文字から思い出すわけだから途方もなく時間はかかるが、それでも考えて物を書くことができるようになったことは、彼のその後の人生に決定的な意味を持った。彼は死ぬまでに3000ページにわたる日記を残したのである。この日記の執筆には想像を絶するほどの時間がかかった。一日いっぱい使って、半ページから1ページ半書くのが精一杯であった。また彼の最近の記憶は失われがちで、昔のことのほうがよく思い出せたという。彼は、残りの人生の25年間のほとんどを、この「日記」(というか回想というか)を書くことに費やした。ザゼツキー自身はこれに「私は戦い続ける」というタイトルをつけ、単語と文章を思い出しながら自分の過去を書き留めるという仕事を続けた。これがリハビリになったとか、機能回復に役立ったかというと、それは控えめな効果しかなかった。しかし、彼が残した3000ページの記録は偉大な達成であり、それを素材にしてふんだんに引用しながら作られたのがこの書物である。