必要があって、アメリカの哲学者で美術評論家のアーサー・ダントのエッセイ集を読む。文献は、Danto, Arthur, Unnatural Wonders: Essays from the Gap between Art and Life (New York: Columbia University Press, 2005).
著者は、アメリカの The Nation という週刊誌の美術評論のコラムを担当している哲学者で美術評論家。アメリカではきっと有名人だと思うけれども、私はしばらく前のTLSか何かで偶然知った評論家。とても分かりやすくて、美術作品が伝えている思想的・政治的なメッセージの分析と、絵画のタッチだとか雰囲気だとか、そういう作品自体としての魅力の説明の両者がうまくバランスが取れていて、私が好きな美術評論家である。
前にも読んだエッセイだけれども、しばらく前に世界各地を巡回した18世紀のフランスの画家のシャルダンの大きな展覧会評をもう一度読む。シャルダンは静物画とジャンル画(風俗画というのかな)に特徴がある。オランダの静物画の、果物のてんこもりのような静物画ではなく、さりげない日用品を数点だけ画面に控え目に配して、その質感の表現に卓越した才能を示した。自分の奥さんや子供をモデルにして、家庭生活の一こまを描いた作品にも特徴がある。当然、フェルメールとの比較が思い浮かぶが、ダントは、フェルメールは子供を描かないし、フェルメールの室内の女性たちは「エロチシズムと芸術」の世界の中に生きていて、そこには天使と詩神のオーラがあるという。それに対し、シャルダンは美しい子供の作品を残し、また、彼の女性たちは、子供と遊び、「本当に」家事をしているという。たしかに、フェルメールの女性たちも窓を開けたりして家事らしいことはしているが、あの家事は、なんかうそっぽいというか、家事を超えた世界への上昇が感じられる。
トリヴィアをひとつ。18世紀の画家にとって重要だった歴史画を書くために、画家たちは男性のヌードを生きたモデルで描く訓練をしていた。ここからは女性画家は締め出されていた。そこで、ディドロは、知り合いの女性画家の前で全裸になって、ヌードモデルになった。ディドロは自分が勃起するのではないかと内心大いに心配していたが、その心配は杞憂で、二人の画家とモデルは、非常に無垢な笑いに包まれたという。女がヌードで男性画家が描くという通常の性別役割分業が逆転されたこのエピソードは、ジェンダー論の美術史の授業で、必ず教えられているんだろうな(笑)