「妖怪と異人」

必要があって、小松和彦の妖怪論を読む。ちくま学芸文庫『異人論』に所収されている「妖怪と異人」

日本の「妖怪」というのは神の概念と深い関係がある。超自然的、超越論的な存在を、「祀るか、祀らないか」によって、神と妖怪が分かれる。妖怪をいったん祀り、それを神としたあとでも、妖怪と神の境界は流動的で、祀り方が足りないと再び人間に悪さをする。これは、横死した人の霊が祟ったり、狐が憑いたりしたときに、その存在を神として祀り上げて、お宮を作ったり、狐の場合はお稲荷さんを立てたりすることを考えればよい。これらは神となって災いをしない。しかし、祀りが不十分であると、それを封じ込めることができない。

妖怪は異形であるだけでなく、他者・外の集団に属し、人間に祟り、恨みを持ち、敵意をもっている存在である。 我々と他者という境界の引き方は、レヴェルが変わると関係が変わる。個人のレヴェルでは、私と妻は別人であり、妻は私と言う個人にとっては、それ以外の「他者」の一人である。しかし、ファミリーというレヴェルでは、妻は、私とともに「われわれ」を作る。この境界が、レヴェルに応じて流動的であることが、妖怪の流動性と関係ある。

河童とか山姥というのは、賤視された否人や河原者、あるいは山の民と深い関係がある。

この本の別の論文で、中沢新一の議論を紹介していた。村で発生した事件についてのある物語が、一方では幻想的・両義的な物語にするために脚色され、もう一方では、よりドキュメンタリー風で、隠喩の力が極力抑えられた「零度」に保たれて伝記の力を保持し続ける、という分析であった。さすが、ある時代の知のスターだった、鮮やかな手並みの分析だなと、昔を懐かしむ気持ちがあった。色々な事情があって、知の第一線から退いたという印象を持っているけれども、近頃はどうされているのかな。