三宅鉱一『責任能力』

必要があって、三宅鉱一の『責任能力』を読む。文献は、三宅鉱一『責任能力―精神病学より見たる―』(東京:岩波書店、1930 )

精神病と刑事責任能力の問題について論じた書物。全体の半分くらいが「無意識」の問題を扱っている、まさにモダニズムの時代の司法精神医学の書である。全部で63の鑑定例が丁寧に論じられて、三宅が再構成した患者/犯罪者の症例になっている。これは、精神鑑定で、犯行当時の心の様子を患者/犯人に記述させるという「セルフ・ナラティヴ」になるから、その内容は、患者の教育の程度や「物語力」、あるいは自己物語の志向によって、ものすごく変わってくる。患者が尋常小学校もろくに出ていないような「無教育な田舎人」なのか、それろもラスプーチンの言葉に導かれて放火と脅迫を思いついた高度な教育があるものなのかで、鑑定で明かされる物語が大きく変わる。三宅の誘導ももちろん重要だけれども、患者が自己を語る力が大きいし、三宅ももちろんそれに気が付いていた。
たとえば、次のような鑑定のセルフ・ナラティヴは、どうだろう。

されど眼は冴えて眠られず。夫のこと、己の行く末を考え、如何にしても夫に勉強をさしてやらむ。されは夫の遊蕩も止み身を入れて勉強するようにならんと思い、その夜は一睡もせず。同じ眠れぬなら手紙でも書こうとおもい、書簡紙をとろうとして立ち上がった時、急にめまいをおぼえ、どうと倒れたり。

苦しんでいるのはかわいそうだけれども、突き放した言い方をすると、新派の芝居かシネマの見すぎじゃないだろうか。