糞尿とその思想

いただいた論文を読む。どちらも、糞尿についての文化と思想を媒介にして深い問題を掘り下げた力作である。文献は、佐藤由美子「差異空間の神話学」『現代思想』30(2002), no.2, 18-46; 東ゆみこ「壊れた世界と秘匿された”自然”」『思想』no.1013、2008年9月号、100-127. 

「差異空間」の方は、論文の構成がちょっと趣向を凝らしてあって、『万葉集』にある「からたちの 茨刈り除け 倉建てむ くそ遠くまれ 櫛作る刀自」という歌の再解釈を試みるという議論が、一番表層にある論旨である。ただ、これは古代文学の論文そのものではない。次にあるのが第二層で、この構成と議論は私にはうまく説明できないけれども、近代主義的にクソは不浄であるという発想から離れて、クソが持つ複雑な意味が生成される空間(これが表題の「差異空間」だと思う)の検討がされている。そして、このような議論のさらに基層に、第三の方法論的な議論の層があって、そこではヴィトゲンシュタインの「家族類似性」の議論を使って、古代の歴史や文学や神話を「クソは汚いもの」ときめてかかるような近代主義的な図式とは違った図式で読み解くための方法論的みちびきがある。この複雑な構成と狙いの論文を纏め上げる剛腕に敬服。

物を見ること、聞くこと、知ること、食べること、これらはすべて、ほかのものを身体に受け入れる意味で、食することは国王が治する意味で使われる、そうするとクソをすることは国を占有すること・あるいはそれに失敗することと深い関係があるという洞察が面白かった。

もうひとつの論文は、戦後に日本人の生活が近代化・都市化・西洋化したときに、日本人が経験した伝統社会と乖離していくアンビヴァレントな感覚を捉えようとした論文。